平坦な道、退屈な時間。この繰り返しだったら、人生はどうなるのか?と思うが、そんな人生はあまり想像もしたくない。悲喜こもごも、浮き沈み、観覧車も回るけど、そこをジェットコースターが走る・・なんてこともあるのが人生。
また予測できないことが起きるのが人生。ちまたでは、想定外とかいうが、ある意味、そんなもんじゃないのか。人間は万能ではない。想定内に・・というのは、人間のエゴであり、自己満足だと思う、もちろん備えることは大切であるが、その事態に結局はいかに対応するかしかない。
そう、対応力こそが人間を強くするのではないかと最近思えてならない。
もういやだ!と投げ出したくなることもたまにはやってくる、なんで自分が?と思うような理不尽なこともある。しかし、逃げてはいけない。逃げると必ず後悔がつきまとうだろう。逃げずにその門をくぐってみる。
経験しないと、潜らないとわからないことばかりだ。
そして一度経験すれば、同じことが来たらもう大丈夫。そのことが世間でいう想定内になっていくのだろう。
最近、何かあったら、「絶対逃げるもんか、絶対やってやる」としんどければしんどいほど、そう思い込むようにする。
ダメだとか、できないとか思うのは自分の成長を妨げ、言い訳をしたり、人のせいにすると自分の心を逆に痛めつけることになる。
もっとしんどいことをやっている人がいる、もっと大変な状況を生きてきた人がいる。
自分なんかまだまだ。そう、まだまだ成長できるんだと、無理やり前向きになると、なんだか前向きになっていくものだから、人間は不思議。これも対応力のひとつ。
成長するために難問が来る・・と信じて
涙がじんわり にじむとき
涙って、不思議だ。ぽろぽろ、しくしく、じんわり・・・。声を出して泣くということは大人になるとあまりないと思うが(とくに日本人の場合)、それでも時々、意に反して涙は静かにあふれる。(女優であれば、意図どおり?にということになるのかもしれないが)
たとえば、ある行動について相手から返事がなかなかない。もうだめかな、もういいか、やることやったし・・・とあきらめつつ、でも諦められないこともある。自分ではすべてやり尽くしたのだから・・・・。結果が出ない自分を責めようもなく、がんばったことで自分を励ます・・自分で自分を慰める。と、そんな時間をやり過ごし、あきらめかけて気持ちの整理をした直後に、待っていた返事がくる。思わず「やった~!」との思いとともに全身の力が抜けると同時に、なぜか涙が勝手に湧いてくる。
そして、なんだか天にも上りそうな気持になってくる。
うれしいという素直な気持ちが涙になるのか、言葉にいえない気持ちだからこそ涙が出るのかわからないが、いいようがない最高の、もしくは最低のときに涙は「心の代名詞」のように登場する。
ある人が私のブログを読み、涙が出るほどうれしいとか、通勤電車で涙がにじんだ・・・と感想を寄せてくださる。忘れていたもの、あるいは普段蓋をしているものの蓋がパカッと空いた瞬間に、涙はにじむのか・・。共感の確認が涙になるのか・・。
いずれにせよ、涙は正直だ。うれし泣き。大人になってもときにいい。
大人の涙。子供のころテレビで見た歌手のレコード大賞の受賞など・・。かなり印象に残る絵だ。化粧がおちるほどに泣ける姿は感動を誘う。涙は、さまざまな努力の末の心の汗か。
ちなみに、私は人に笑っていただいたり、ときには泣いてもらうことが・・そんな仕事が好きだ。時と場合によってそれを意識し続けたい。
涙は心の鎧が解けたときに流れるのだろう。それだけ人は普段いろいろ踏ん張って、食いしばって生きているのだ。
だから、ときに涙がじんわり・・。もいい。がんばる人の静かな涙は、美しい。
環境変化を求め育ち、そしていいオンナになる。
15年ほど前の食品関係の見本市。その展示商談会は今も続いているが、一般よりも業界向けの商談の場として内外から多くの来場者を集め、活況を呈していた。その場で偶然出会ったその人。九州の焼酎メーカーの営業としてブースに立ち、積極的に来場者に声をかけていた。若いな~。元気があるな~。そのときは「焼酎女子」という印象。なぜか磁石のように引き寄せられ、笑顔で名刺交換をしてから彼女との交流がスタートした。見本市で出会ってから商談ではなく友人になってしまうという例も少ないが・・。当時お酒を売る仕事をしていた彼女は、鹿児島拠点にがんばっていたが、ある日突然「看護師になります。」といって専門学校へ入るとの報せ。そして住み込みで勉強をして努力の結果、見事、看護師になった。へえ、焼酎の営業してから、医療の現場へとは凄い転身。そして「マーサさんもいるし、東京へ出ます」そんな言葉を聞いたか聞かないかは、もう定かではないが、なんと本当に東京へ引っ越してきた。看護師という仕事はどこででもすぐ働けるからその点は動きやすいのかもしれない。その間、涙も笑いもある再会もあり・・。そして私の各地へのライブへも参加してくれて、思えば、東京のみならず、京都へも新潟へも足を運んでくれたことも懐かしく・・・。そこで出会った人々との交流も持ち前の明るさで積極的で・・・どんどん東京でも仲間を増やしていき、仕事のキャリアも積まれた。南米への興味という点でも、共感。北米は水が合わないと言っていたが、探検家のごとくどこへでも行き、新しい挑戦を厭わないという点はあっぱれなぐらい・・。彼女が勤めていた病院で、ボランティア演奏を1年させていただいたことも今となってはありがたい思い出・・。そんな彼女と何年かぶりに食事をし、近況を交換する。今はスペイン語を習い、ラテンな人たちとの交流を行い、なんとまあサルサも始めたと言い始める。昔、ライブでタンバリン演奏を突然ふって、迷惑かけた思い出がよみがえり、笑ってしまう。環境が変わると、どんどんいろんなことへの興味も増え、活動も広がるようだ。
現在の仕事は都内での訪問看護。いろんなお宅を回って、お年寄りたちのお世話をされている。いろんな人に出会った、学んだ、楽しんでいるその経験が彼女の全身に現れている気がした。おおらかさは変わらないが、気が付けば、自然に「全身」で話すようになっていた。おそらく国籍の違う人との交流、お年寄りとのやりとりのなかで、「ちゃんと伝えたい!」という強い意志がそのコミュニケーションスタイルになってきたのだろう。
15年前の彼女とは違う、とても成長された大人の彼女と出会った気がした。
「マーサさんはやっぱりオネエチャンですね。」と言ってくれる。意識したことはなかったが一回りも下の彼女、これからがますます楽しみだ。
彼女の生きるステージの変化を追いかけながら、彼女の成長と充実した人生をわがことのようにうれしく思ったりする。
妹たちががんばってくれると、おねえちゃんもがんばれる!という感じ。
お互いに自然に背中を押し合って・・・。
次の転身も、心のどこかで期待しながら・・・。グラシアス。
結びはA(エー)か、Am(エーマイナー)か
CD楽曲の最終確認を行う。だいぶ客観的に聴けるようになる。真剣に集中して聴くと精神的にしんどくなるため、ヨガをしながら、とかその音楽にあわせて体を動かして聴いていると、だんだんその作品が意外といいじゃん!という感じになってくる。
曲の最後が実は大切だ。私の場合は、Aマイナーな女だといつも思っている。自分で創る曲はなぜかイ短調の曲が多いのだ。そう、マイナー派である。しかし、マイナーな曲だって最後までマイナーでなくてはならない、とそんなことはない。どんなにマイナーな曲でも最後をAで終わると、薄闇の中に薄日がさしてきたような、そんな感じにもなるのだ。その終わり方は自在だ。
さて、今回の音確認。自分の作ったワルツに乗って調子よく体を動かしていた。やっぱりAマイナーの曲だ。このままいくと、Aで終わると明るく終われるな~と思ったとたん、その曲はAマイナーで静かに終わった。あ、マイナーで終わっていたのか。
そう、この1コードは実は曲の締めに重要だ。マイナーで終わるにも、Aで終わるにも意味があるのだ。
たったひとつのコードでお客様の気持ちも変わるはずだ。
ひたすら演奏して録っていたときと、今の気分が変わっているせいもあるのだろう。ま、アドリブワルツということで、どっちもあり。
さて、人生、Aで終わるか、Aマイナーで終わるか。
本人的にはAで明るく終わりたい。そして周囲にとって少し余韻をもって最初Aマイナーそして時間が経ってAに変わる・・・なんて結びがいい。
コードの付け方ひとつで人生も明るくもどうにでもなる。
ご当地は昔も今も、これからも。
人はどこかに生まれ、どこかで育ち、暮らし、そして最後を迎えるが「どこ」というのはとても大切なようだ。
先日県民性ということについて少し触れたが、「ご当地」という切り口は、どうもどこの地域でも喜ばれる、共通のテーマのようだ。
先日、初めて かの古賀政男の記念館なるところに足を運んだ。どんな資料館なのかと手さぐりと興味本位で出かけたが、いやはや作曲、発想の面で大変参考になった。
古賀大先生は、ご当地ソングを数多く手掛けておられるのだ。自分の故郷はもとより、住んだ町、訪ねた町・・・そこへ行くとそこにちなんで曲が生まれる、このことは共感できる。(もちろんレベルは違うが)
これまで、あまり「ご当地ソング」を意識したことはなかったが、これからここにこだわるのもあり!と新たな展開がひらめく。
どこかで作ってはいても、あえて地名を入れていない場合が多い。
逆に入れることで、わかりやすくするという方法も良いのだろう。
それにしても、この資料館はすごい。氏の住居再現やその功績を振り返る展示もさることながら、昭和歌謡のすべてが学べる。そしてなんと?視聴コーナーはもちろんのこと
カラオケの部屋もあるのだ。
そうだ、わがふるさと岐阜にも「柳ケ瀬ブルース」があったな。と良き時代を思い出した。歌は、その人、その時代、その社会を思い出させる不思議な力がある。
高校野球の次に、ご当地ソング・・・グルメ、そしてゆるキャラ・・・ご当地ものはこれからも続くだろう。日本人は「ふるさと」がとても好きな民族だから。
自身を職人と言う、愛すべき芸術家
なぜかこの作家とは縁があると勝手に思っている。彫刻家のこの大先生の息子さんを最初に知った。この息子さんも大先生。日本を代表する彫刻家で会社員時代に、勤めていた会社が図録を作っていたこともあり、へえ、こんな彫刻家がいるのだと深く、胸に刻み込まれた。そして、そのお父上がこれまたすごい!ということに最近気づき、なぜかその作品を探し求めるようになった。
衝撃的な出会いは、長崎市の西坂に約60年前に建立された、二十六聖人の像。400年以上前に、京都から長崎へと連行され、最後その地で火あぶりにされ亡くなった人たちへの慰霊の像。資料も多くなかった時代の殉教者たちのことを調べ抜き、見事な等身大の像を作ることで聖人たちを蘇らせた・・・。その作品の前に立った時、長い時間立ち止まったまま動き出せなかった。殉教者たちの苦しみとともに、その人々への祈りを込めて創られた、この作家の心中と忍耐力と想像力と巧みのあまりの凄さ、涙があふれた。作家はその聖人の一人を自身の父親のように思いながら、創作していたという記述もあり、心揺さぶられる。
この作家の名は、船越保武。岩手出身で、彫刻の勉強をしようと、上京。学生時代に住んでいた練馬区の美術館で今回、何度目かの作品との再会を果たす。クリスチャンらしい清らかな祈りを込めた、美しく、また悲しい作品が観る人を惹きつけ、離さない。
彫刻とは、石をひたすら彫り、削る。そう足すことがない、ただ引いていくという技なのだと知り、それも感動する。粘土による創作とは違うのだ。
船越氏は、晩年病により、半身不随となり、左手しか使えない身になっても、その左手でデッサンを書き、そして作品を作り続けた。両手を使っての創作時代は繊細で精緻で細やかな美しい作品、そして晩年は片手にすべてのパワーが宿ったかの力強いごつごつした作品に変化していることも、作家の生きざまそのものが伝わってくる。
この先生、素晴らしい言葉も多く遺されているが、その中でも、自らは芸術家ではなく、職人だといい切っているところがまた気に入ってしまう。
死ぬまで自らが選んだ手仕事をやり続ける。それが幸せなのだと・・・。
芸術家とは後になって、その結果括られるのであって、あるいはそれは他人がそう名付けるだけのことであり、やっている本人にしてみれば職人~それが正しいのだと思うし、そのような謙虚さをもつ人だからこそ、素晴らしい作品を生み出せるのだと思う。
今度、この先生の作品に出会えるのは、長崎だろうか。
平和を祈りながら、先生の偉業に改めて敬意を表したい。
「一生」の重み、多様性、幸せ・・・
20年以上お世話になっているデザイナーが、書の展覧会に出品すると聞き、興味をもち会場に向かった。昔は手でもって、最近はパソコンでもってグラフィックデザインの
仕事をされているクリエイター。レイアウトはもちろんのこと、文字や画像の処理もさすがで、また器用というだけではなく、目的に合った表現を提示され、どんなハードな課題でもやり抜かれるので、プロとして安心してお願いできる方。その方がどんな書を書かれるだろう?文字をどう扱われるのだろう?と興味深々。
その作品のタイトルは「一生」。この二文字が真っ白な紙に力強く表現されていた。
書も多様な表現が可能で、漢文や長文の詩を書く方もおられれば、短文を書かれる方もあり、「読ませる書」も多いが、一方、文字を図案として、記号としてとらえ、より自由に表現される「見せる書(魅せる書)」というものもある。
さすがデザイナーの書とは、後者であると感じた。そして、その二文字から伝わるその言葉の意味や、作り手の思い・・・。なんだかその作家さんの新たな一面、あるいは普段のグラフィックデザインの世界では知らなかった一面が見えてきたようなそんな気もした。一生か・・。一生とはひとつの人生という意味か?一人の人生という意味か?一度きりの人生という意味か?一生というが、単純、単独では生きられずつねに「多くのもの、人、コト」と関わるのが一生という意味か?などなど改めて考え、そして「はて、私の一生とは?」と、我が道を見つめ直すきっかけになった。
私の一生。この作品と同じように唯一の存在だ。だから悔いの内容に、一生懸命生きるのが良いのだろう。無限の可能性をもつこの作家さんの今後にますます期待したい。
真のグローカリストを目指す。
「新潟県人って伝え下手でしょう。」「伝え下手というよりも、おもてなしの気持ちに賭ける県民性なのでは?」「いやいや、もともとそういうことが必要ない環境だったから、口下手で一見おもてなしが・・と思うかもしれないですけど、つきあってみるといい人が多いですよ。優しいですし・・」・・・と、たとえば新潟に通っているといろんな話が出てくる。もちろんこれは、新潟だけではなく、岐阜だって、京都だって、長崎だって、東京だって・・・それぞれの地域には地域の自然があり、歴史があり、そこで生まれた文化があり、そこに人が育ってきたのだから、言葉も違う以上に、考え方、感じ方、コミュニケーションに対する感覚が異なるのは当たり前だ。
一方、その地域性とは無関係に、ひとりひとりがもっている個性があり、それはたまたまその地域で生まれたということにせよ、同じ地域に住んでいても違う人はたくさんいる。また違う地域で生まれ、育ったのに、「共感」できる人も多くいる。人はいつも
自分のバックグラウンドと、自分自身が進み、対面する世界での経験、努力によりいかようにも変容するものだと思う。
環境、意志、才能、努力で変化するということだ。その変化の中には、地域性を越えたグローバルなモノの見方、行動も含まれると思う。
私はどこに行こうが、片目は行った場所の地元目線で、そして片目は世界目線でモノを見たいと思う。現地の方との交流も大切にしながら、至近距離だけでない応援もあるという前提で俯瞰してみつめ、関わりたいとも思っている。
この生き方がどうなのか?の答えはまだ見えてないが、こういう生き方もありだとは思っている。
グローカルとは、それぞれを大切にしながら、全体をみつめること。そしてできることをしながら、社会全体への影響も心掛けて生きることではないか。
地域性を大切に、しかし、そこにこだわりすぎず、決めつけることなく、柔軟に接していけたらいいなと思う。田舎に帰る人が多いこのシーズン、ローカルな自分に接し、いろんなことを思う人も多いのでは?
「確認」と「反省」を繰り返し、成長がある?
前へ進むことについてのためらいは少ないほうではあるが、立ち止まったり、ふりかえったり、「確認する」ということが苦手な傾向があるようだ。苦手というか、確認することが怖いと思うことが時々あるという意味だ。日々の暮らしの小さな行動、仕事での確認は当たり前のことであるが、特別なときの「確認」というのがこれまた怖い。
たとえば、自分のライブ・ステージを記録したもの。よく録って、撮っていただく。そのデータがCDやDVD,あるいはパソコンの中にいろいろ残っている。写真類は、あとで使うことも多いため、見ることがあるが、自分で見たくない顔(笑)はすぐに消去したくなったり、いやー、こんな顔でやってんのか、この顔はいやだ、このほうれい線は・・・うーん、おばさんだな~などなど。ライブの様子も同様。あまり振りかえることは好きではない。
ただ、CDを作るとなるとそうはいかない。チェックが必要だ。レコーディングするときに自分がどんな実態であったかを知っているだけに確認はとても怖い。ああ、いかん。ああ、あかん。ああ、ああ・・。という感じだ。いいところはいい、自分でも涙が出そうになるところもあるが、そんなところばかりじゃないというのが現実だ。
でも、それも等身大だからと一種諦めの念になるのが、「確認の場」である。
同じ音楽仲間に聴くと、同じような心境だというから、自分だけではないのだと安心もする。確かに自分自身だからわかること、があるのだ。初めての人にはわからない、わかりづらい、気づかない、でも本人にはわかる。あとになれば大したことでなくても、確認中というのは、なんとも不安である。
しかし、ひとたび作品として完成してしまえば、完全に開き直り、その作品が何よりも愛おしくなる。私の仲間は、いつもいつも車の中で自分のCDを流して、自分のCDだから一番好き!と言っていたことがあるがその気持ちもよくわかる。
自分の音だから、自分の曲だから まるで子供のように、分身のように思えてくるのだ。うまくいっても、失敗してもその作品は自分の生き写しであり、だから確認が怖かろうがなんであろうが、今というステップを通過するしかない。・・・と完成を間近に、怖い確認を重ね、ため息を出しながら、次回は・・・と反省をしながら、成長していく・・。といいなと思っている。
死ぬときは、前のめりで?
いろんな友人、仲間に恵まれ、幸せ者だと思う。近況を聞き、ときには驚き、笑い、困っているときは親身に聞いてくれたり・・・。各地へ出かけるとそこの土地で待ってくれている人がいて。。。順番にというわけでもないが、気になっている方に連絡をとり、カフェで待ち合わせたり、蕎麦を食べにいったり・・。とにかくできる限り多くの人に遭わねば・・と思う。とくに京都に行くとそんな感じになって、次々と人に会う1日はあっという間に1日が過ぎる。
そのなかのひとり。会社員時代はクライアント企業で働く方だった。定年退職されたあともなぜか年に1~2度お会いしている。その人は世間のことを評論家のように見ているのが面白く、ときに正論、でもちょっと「口だけおじさん」のようなところもあり、そのゆるさも私にはうれしい。気が付けば、いつもいい「聞き役」でいてくれる。この人のことは誰が聞いているのだろうと思うほど。
その昔、仕事でお世話になっていた。今はなぜか友達のようになんでも話せる。いろいろお知恵もいただく。会うと刺激を与えてくれるからうれしいと、いつもアツかろうが、寒かろうが人混みの京都駅まで来てくださる。気が付けば20年以上の知り合いだ。
お会いしたその日お礼メールをし、その返信が届く。いつものごとく、ダジャレ連発、随所に笑いのエッセンスとエスプリ?をきかせた文面の最後に、「これからも挑戦してね。体調にはくれぐれも気を付けて。~死ぬときは前のめりになって!~と坂本竜馬は言ったとか言わなかったとか」とある。ちょっと粋な終わり方だ。
「死ぬときに前のめりか。」いいな。死ぬまでイケイケ!ということだろう。
いつ死んでもいいように、覚悟して積極的に、いつも前のめりで行けということでもあるのだろう。
とにかく生きようが、そうでなかろうが、今はいつもどおり、前のめりで行くしかない。ときに名言を与え、応援してくれるこの知人の存在が悩み日々には、ありがたい限りだ。京都・・・世界一の観光地としてはちょっとイメージダウンなほど、人混みで疲れる京都ではあるが、そんななかで昔からの知人を探せることがうれしい、猛暑のひととき。