鏡を見るごとく、書き、読む。

本ブログ。私にとって一体何なんだろうとふと立ち止まる。
日々、目の前を通り過ぎる、あるいは自分が感じ取った事象へのさまざまな視点、思いだったり、記録だったり。
コミュニケーションクリエイターとしてまもなく17年になるが、その生き方、生きざまを何かの形で残したいのだろうと
想ったりもする。読んでくださる方がいることは、本当にうれしいが、注目されるとか、話題になるとか、そこは目指すところでは
ない。
最近思うのは、こういったものは、自分の鏡のようなものだということ。
鏡に映っている自分の顔。それを人様はいつも見て、相手にしてくれる。
自分は人様にどう見えているのか・・・を鏡で確認することは大切だ。
文章も同じで、書いたものを見て、人様は自分のことをあれこれ想像されたりもする。
だから、鏡だ。そこに映しだされる自分がどうなのか?
心を映すもの。ブログとはそういう存在ではないかしらと最近思う。
鏡を見るということは、自分を見直すということだ。鏡の存在を知らないよりは、注意深く生きられるのだろうか?
まだまだ・・・な感じはするけれど。

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「ようこそ」と言える素晴らしさと驚きと・・。

ミュンヘンの駅は2度ほど行った記憶がある。国際列車が乗り入れるため、わくわくする。フランクフルト駅よりもコンパクトであるため、駅舎に入ると間近に列車たちが見えて、とても好きな駅。そこでゆでた白いウィンナーをいただき、感動したことも懐かしい・・・そこにはヨーロッパ以外からの乗客が多いことも感じていた。フランクフルトやベルリンとは違う、中東が近い。そんな感じがしていた。
先週末からその駅に大勢の難民がやってきている。自国を追われ、安住の地をめざし、やってきたシリアの人たちだ。旅行でもない、移民でもない。自国を追われてきた・・住むところがない不幸な人たちである。その人たち自身には罪がない。戦争のせいだ。
かといって、何万人も押し寄せてきたら・・・その受け入れる側はどうなるのか?現実問題としてそのことも大変危惧するのであるが、あのドイツの首相はホンモノだ、大物だ。率先して受け入れをし、そしてEU各国にも呼びかけを続けている。そんなことができるというドイツという国の強さを遠くからではあるが、素晴らしい、頼もしいと思う。そして、その住民たちもなんと、駅でその難民たちを迎えている様子を知り、なんという国だろうかと思った。「WELCOME」という手書きのサインボードをもって、立ち尽くしている人も多数いた。
難民が来て迷惑ではないのか?なぜ、ようこそなのか?ある家庭では子供が出迎えに行きたい、お菓子をあげたいというのだ・・という。
これは、キリスト教の慈悲の心だろうか。観光客でもない、自国にお金を落としてくれるわけでもない来訪者へ「商売のためのおもてなし」
ではなく「心からの受け入れ」ができるとは・・。感動しつつ、驚きもする。
もし、日本にこのようなことが起きたら・・・どうなるのだろう?たとえば、アジアの国からある日、難民を乗せた船が次々やってきたら・・・。しかも何万人も・・・。キレイごとではない、現実社会のなかで、ドイツという国は戦後、ちゃんと成長してきた国のように改めて感じる。それにしても、一方で戦闘は加速するのだ。世の中は果たして、いい方向に向かっているのだろうか。「ようこそ」「ありがとう」これが大切に伝え、広がる平和な社会に少しでも協力したいものだ。ユーロ諸国は、今、本当に大変だ。

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いなかっぺ大将にノスタルジー。

都内周辺の町にある小さなミュージアムには意外なお宝がいっぱいだ。PRが足りないのか、お客さんもほど少ないが、なかなか見ることができない企画展が多い。三鷹の駅前のギャラリーにたまたま出向く。なんと、40年前、私の少女時代ごろからブレイクしていた名漫画家~川崎のぼる氏の原画展をやっていた。氏といえば、巨人の星!とすぐ思い浮かぶがなんと、いなかっぺ大将もそうだとは気づかなかった。
他にも数えきれないほどの名作を世に送ってきた漫画界の。まさに巨人だろう。
小学1年生という月刊雑誌。今もあるのだろう。あれを買ってもらうのが楽しみだった。いなかっぺ大将といえばその雑誌。巨人の星は読んでいた記憶はないが、あの主題歌は今も脳裏に焼き付いており、飛雄馬のお父さんがちゃぶ台をひっくり返すシーンが一番記憶に残っている。今回の展覧会でもその父親のシーンは健在で、自分の小学生時代をすっかり思い出し、久しぶりに身近なノスタルジー気分を味わうことになった。ちゃぶ台をひっくりかえる親の怖さは、自分のその当時と同じで、お釜の蓋が飛んできた・・・そんなことも忘れていたが確かに実在した時間も一緒に懐かしく蘇る。
40年以上経過して、世の中も変わった。自分も変わった。でも、これらの子供たちの心に火をつけてきた作品たちはそのままだ。
デジタル社会の現在ではもう存在しない、切り貼りした原版。おそらく弟子たちの手仕事もあって、作品が完成されたのであろう。吹き出しには写植の文字が貼ってある。そして原画は手書きだ。素晴らしい。
ゼロから創りだしたホンモノの世界を感じる。最近問題になっているコピペの世界とは程遠い。そのことにも感動する。
いなかっぺ大将の大ちゃん。懐かしい。飛雄馬のお父さんとお姉さん。子供時代のみんなの家族だった。お茶の間!があった時代。
世の中はある面では進化したけれど、あの時代に帰りたい!というものもたくさんある。ノスタルジー。生きている限りついてくる、永遠の憧れでもある。

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ふりかかる難題もギフトになる。

できれば、毎日何もない方がいいと考えがちだ。でも生きていると、必ず何か起きる。いいことも、悪いことも。そして、いいときも、悪いときもある。ずっと同じ調子でいる人生はありえない。
成功しているように見えている人も実は多難な人生であったり、何も言わないけれど実は背負っているものがいろいろあったり・・。
人生って一様ではなく、そう簡単ではない。
平凡が一番いいと願う人は大きな挑戦をしないかもしれない。小さく生きることでいいことも問題も回避する人生・・。そんな人もいるだろう。
さて、最近は若いときと違って、何かと人生の荷物について考えることが多い。いろんな問題も起きてくる。これからもきっと出てくるかもしれない。
そのとき、しんどい気持ちになるが、それも考えようで楽になる。
「その人に見合う難題が出てくるんだって。乗り越えられない問題はないということかな」「難しいことこそ、贈り物かもしれない。立ち向かった分だけ成長するから」「知ることで経験することで見えてくる何かが絶対ある」・・・最近、こんな言葉をよく聞くようになった。
そう、自分にできないことはない。と思えばよい。またその時その時に前向きな気持ちでひとつひとつ進んでいけば、必ずいい結果に向かうはずだ。重いな~と思うよりも、もってやる!と自分の精神を筋トレすればよい。
言えるのは、どんなときも、自分次第。自分の意志、心がけ次第で行動は決まる。気持ち次第でギフトになる。と、信じていたい。

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涙を降らせる、目の存在。

人間は何で語るのだろうか?実は、ここ2~3日、ある瞬間の場面を思い出すとたまらない気持ちになる。

定期的に実家に帰り、家の仕事をあれこれと行う。自分がなぜこれをしなければならないのかと、深いためいきが続く日もある。
おかげさまで両親は元気だ。胃がんの母も、奇跡の復活。以前以上に、元気でやっている。父もしかり、元気に過ごしている。周囲のおかげだ。楽しい毎日をそれなりに過ごしているのだと思う。
その元気のおかげでこちらも相手が老人であることを忘れ、今だに全力で親に接してしまう。それは子供の頃、全力でぶつからなければ自分らしく生きられなかったから。だからいつしか、そういう術が身に付き、今も力を抜くことができないままだ。
父親とたまに喫茶店へ行く。これは岐阜人にとってのリラックスタイム、いい交流のひとときである。
父と面と向かって話す。最初は何もなかったが、ちょっとした会話がきっかけで、いつもどおり、また喧嘩が始まる。
するとガソリンに火を注いだように会話の勢いがあらぬ方向に飛び火する。
父は私が理屈を言うと、目をそらし、投げ台詞を言う。それが気に入らない私は、「ちょっと、前向いて話したらどうなの」と、ま、こんな風になる。すると、父は「何がや」と強がり、横向いていた顔を前に向け、私の目をちらっと見た。
・・・・
場面は変る。その2日後のことだ。がんばっている青年経営者と初めてのサシでの会食。彼の奮闘ぶりはもちろん知ってはいるが、深い話をしたのは初めてだ。彼のこれまでの仕事の経験、生い立ちを聞き、なぜこの人がこんなにがんばれているのか・・・が見えてきた。
若いとき、かなりのやんちゃだったそうだ。お父様が体を悪くされ、ずっと入院。そしてお母様も・・・。それでも遊んでいたそうだ。
そしてお母様が亡くなる前に、「もうすぐ私は死ぬんだから人の話を聞いてほしい」と言われたにも関わらず、その話にも耳を傾けず、その夜飲みに出かけ・・・・そして、翌日お母様が亡くなったそうだ。そのことが、彼のトラウマになったという。そのことが彼を仕事に向かわせているのだと思った。家族への責任もきちんと果たし、ビジネスもしっかりがんばっておられる。
・・・・・
その話を聞いたあと、なぜか私の中に、先日見た父親の目がくっきりと、しかも何度も浮かんだ。
父の目は憎たらしい言葉とは相反して、かなしげな、申し訳なさそうな、憎めない、純粋な目で私を見つめていた。
最近、父は私のことを「おまえは怖い」という。だから、ああいう目なのだろうか。
先に書いた青年経営者の話と、自分のことが重なって、どんなことでもいいから、悔いのないようにしなければ・・・と改めて強く思う。
なぜか、父の目を思い出すと、最近のことだけでなく幼き頃を思い出し、涙があふれる。
人間はだんだん弱くなっていくんだから、全力でぶつかりなさんな。
反省とも悲しみとも感謝ともわからない思いが、涙になって降る。
目は口ほどにモノを言う。本当だと思う。だから見なければいけない。だからこそ、そらすこともあるが。

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今、西で起きていることに目を向ける。

日本は島国だ。環太平洋という括りで、隣国たちとの関係づくりをより良いものにしていかねばならない。自国に住む国民の平和・幸福を希求しつづけ、そのために隣国とより良い関係を結ぶ。緊張関係を強めることだけではない友好的な関係づくり、またどこかに書いてあったが、社交ではなく本当の意味での外交問題。これは大切な問題であることはよく理解できる。
日本は島国だ。それゆえの生き方があり、いい面、問題がある。島国でなければ、たとえば拉致という問題もなかったのかもしれない・・。
その立地ゆえのメリットとハンディ。それぞれある。
日本のメディアではさほど騒がれていないが、今、ヨーロッパは大変な状況にあるようだ。少し前まではギリシャ問題で揺れていたが、今やシリアからの難民問題。シリアから脱出を船で試みたある家族の子供?だろう、3歳の子供の亡骸がある海岸でみつかったことで、今、難民をどう受け入れるかがユーロの重大かつ深刻な問題になっている。大勢の難民がある日、自分の国に押し寄せ、パニック状態になったら?
自国を守るのを優先するばかりに難民を見すてれば人権的には大きな問題もあり・・。そんなことで、今ヨーロッパは揺れている。
難民たちは船で海を渡り、ヨーロッパ各地へ入国し、さらには受け入れをしてくれそうなドイツに向かっているという。
このことはあまり日本で知られていない。知っておくべきことだと思えてならない。
世界では常に同時にいろんなことが起きる。戦争の被害者として自国を追われる人生とは何であるのか?生きる安寧なる場所がない人の人生とはどうなのか?それに比すれば、日本は?島国であり、そこから遠い場所にあるために知らないで済むことか?
もし、中国大陸からある日、多数の難民がやってきたらどうするんだろう?北朝鮮からでも・・。想像するだけで恐ろしいと思わざるを得ない。流入する難民が恐ろしいのではなく、そうなるという事態が恐ろしい。
日本という国はどうだろうか?日本という場所を追われ、いつかどこかに行かざるを得ない時代も来るのだろうか?ないとはいえない。
いやはや、日本が騒いでいる最近のテーマ。平和故の・・・贅沢な状況にある故の・・・世間知らず故の騒動ではないのかなとも思えてしまう。とにかく、あの難民の悲劇を知るにつれ、自分の暮らしはなんと平和であるのか。心から感謝しなければ、そしていつも世界で何が起きているのかを知り、その流れを理解しながら、分相応かつ適切な行動をとらなければと思う。

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次の妄想へ進もう!

ザビエルプロジェクトは、旅となり、曲となり、歌となり、メッセージとなり、行動となり・・・。不思議ではあるが、ゼロからの発想がえらいところまで行ってしまったという感じだ。当面の目標は、歌にも書いたとおり、彼が歩いた町でこのメッセージを届けること。
そのゆくえがある程度見えてきた今。次はなんだろう?とくに何か決めないといけないと思っていたわけでもなんでもないのであるが、不思議なものだ。相手から自分に向かってくる。新しい風が吹いてくるという感じだ。
ザビエルさんは450年ほど前の存在。かなり情報も残っている方だ。
でも、写真はない。写真がない分、想像力もかきたてられ、面白い。そう、情報があまりないほど、イメージを描きやすいのかもしれない。
ということで、次の妄想ターゲットとの遭遇を今、楽しみつつ・・・。
最近、見たあの石像の主人公・・。どうだろう、2000年前の人物に思いをはせるとは・・。いやはや、イタリア在住の歴史作家に習いてもっと勉強しないと。
そう、妄想には想像力だけでなく、少しの知識は必要なようだ。いずれにせよ、次なる妄想へ。それが生きる新たなパワーになる。

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模倣の意識と創造と器。

ここんところ、デザインの模倣が問題になっている。これはネット社会の影響による社会問題のひとつかもしれないと考える。
いろんな情報を簡単に入手し、調査することができ、参考にもでき、また訴えることもできる。情報化社会でなければ、もし似ている作品が世の中のどこかにあったとしても気づくことがない。しかし現代社会では、作品は著作権において保護され、そしてその主張は正当である。が、知らなかった、まったくの偶然。ということは実は少なからずあるのではないかと思う。とくに音楽の世界においては、自分自身もいつも思う。たとえば音楽において西洋式の音階は、7つの白鍵と5つの黒鍵の合計12の鍵盤しかない。その組み合わせで曲は生まれるので、どこか似ている曲というのはあまた存在するのである。意識していなくても、聴く人が聴いたら「これ、ここの部分、○○に似ているよね」ということも大いにある。そんな限られた音の組み合わせの世界で、いかに独自のものを作り出すかは、生みの苦しみでもある。もちろん日ごろからいい作品をいっぱい聴くことは想像力のプラスになる。参考にしながら、まったく違うものを生みだすには、私の場合は自分だけのテーマ、情景を思い浮かべるということがポイントだ。この思い浮かべる世界が独自のものであれば、何の模倣にもならないはずだ。小学生のころ、エレクトーンでオリジナルの曲を作った。それはジャズのある名曲のコード進行がかっこよかったのでそれを生かして作った。すると当時の先生がそのことを「あの曲のコードと同じだよね」と少し蔑むように言った。そのとき、実は傷ついた。小学生がそんなジャズコードをオリジナルに使いこなせるわけがないというのもあったのだと思う。しかし他の曲も名曲に似ているものを使っている人もいるし、子供の作曲だ、しかも何も習っていないのに、「真似る」イコール「生かす」ことは何が悪いのだろうと思った次第。ま、それから月日は経ったし、今ならばそんなこともしないが、たくさん聴く経験が増えれば知っているものは増えるわけで無意識に一部的に参考にしている部分はどうしてもあるだろうと思う。
意識して、パクろう!というのは問題外。あるいは創造性をもち、ゼロから構築したものをやすやすをコピペし、少しごまかしのお化粧をして自分の作品と言い張るのは論外。本当に潔白であれば、最後まで正々堂々としていればいい。
また、一方で、本当に大物であれば、真似されることを許す。真似されるぐらいすごい作品なんだ。あれは私のを参考にしていますが、一緒に盛り上げましょう。なんて器の大きいアーチストがいたら、もっと尊敬する。
最近一緒にお仕事しているDVD制作の会社の社長さん、とても大きい。「早くきちんとしないと誰かにパクられますよ」と心配して言うと「パクられるということはそれだけみなさんが必要と認めてくれているということ。いいじゃないですか。多いに使ってもらって世の中に広がればいいですよ」との回答。断然、こっちが大物だと思う。私の作品であると言い争う以上に、なんだかもっと広い視野でお互いに認め合い、協調できるといい。意図してパクるのは絶対いけない、が大物はもっと違う次元で創作に向かい合っているような気がする・・・。と今は思う。私も真似されるような作品作らねば。誰もしないか?

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オリンピック、やるのかな?と素朴な疑問

失態続きのこの準備。アルゼンチンまではるばる出かけて、「Under the Control」?とかゼスチャー交えて一生懸命プレゼンしていたあのころと今を比較するとなんだったの?と思えることばかり。何ひとつ、コントロールできていないじゃない?メインの会場も、コミュニケーションの根幹的存在であるエンブレムも・・。すべてやり直し?お金も時間もとてもじゃないが、プロとはいえないお仕事の進め方。税金でやっているのだろう?いい加減にしてほしい。デザイナーや建築家の問題だけではない。これらをとりまとめていく人たちの真剣な仕事ぶりが大問題だと思う。後追い、人のせい・・。誰が責任者ですか?不透明な妙なプロジェクト。いろいろバックがあるのではと思えてしまう。もともとオリンピックには無駄に大きい施設も要らないし、大それたマークもいらない。もっと大切な準備がある、マークとは、マークのデザインが大切というよりはそれができるプロセスがどうなのか?という点が大切だ。著名デザイナーだから大丈夫ということではなく、マークとは思いの結集であり、それを見ればみんなが夢をもてるということが大切なのだ。そしてクリアな仕事がされていれば今回のようなことにはならない。オリンピックの主役はアスリートなのに、問題が周辺から沸いてくるこの点も気になる。
こんな状態で、本当にオリンピックやるのかな?やらなくていいんじゃない?この程度だったら・・・。こういった仕事も見て、開催地を決定すればいいのでは?などなど思ってしまうのは私だけか?>オリンピックって何なんだろう?そもそも・・・が気になってくる。
もうやらなくてもいいのでは?と思うのは私だけであろうか?ああ、もったいない。
戦後オリンピックは、古代のそれとは大きく目的が変わってしまった。政治的になり、商業的になり・・。
異常気象でもあるこの地球において・・今一度、原点に立ち返り、もう加熱しないでいい。時代時代に合った終息の仕方もあるだろう。オリンピックだけではないけれど。ちょっと極論になってしまったが・・。

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Enjoy Tokyo!

いやー、最近、都内を訪れる外国人は本当に増えている。京都は昔からそうであったが、とくに最近はパリを抜いての人気ぶりで、ますます過熱気味。東京は広い分だけ、京都のように集中してはいないが、それでもいたるところに外国人をみかける。
地下鉄のアナウンスも、必ず英語も入れて方がいいんじゃない?余計な効果音にお金をかけるよりも、と思うほどだ。路線図をじっと見ながら緊張して乗っている様子、自分もパリに行ったら同じだと思いながら、一緒にドキドキして、思わず声をかけそうになる。
外国人観光客にとって渋谷の交差点は面白いらしく、あの混雑の中の整然をクールといい、その様子がSNSで海外で広がっているようであるが、地下鉄の朝ラッシュはいかがだろう?あれは呑気に見て写真を撮るという風情ではないし、絶対に恐怖を感じるであろうから、見物客もいないと思うが、週末の地下鉄ならば快適だ。
そして、ミュージアムは観光客が必ず訪れるスポット。都内には数多くの美術館、博物館があり、海外からの来訪者も増えた。今回、国立博物館へ出向いたが、常設展には外国人観光客の方がとても多い。刀、甲冑、仏像、着物・・・などなどが人気だ。そりゃそうだ、日本ならではの文化歴史を象徴している。彼らは一眼レフのカメラでどれらの展示物を撮影する、あるいはスマホでカシャカシャ撮る・・・。これは一昔前はなかった。音ありの撮影、これはちょっとやめてほしいが・・。注意は行き届かない。存分に楽しみ、そして気に入った作品の絵ハガキを買い求めていく。
博物館の外は上野公園。そちらでやっていた岐阜県飛騨市のイベント。テントが立ち並び、各ブースで名物を販売。その中にあった「みたらしだんご」「五平餅」を売っている店に行列が。自分もつい懐かしくなって並ぶ、後ろにすぐ人が続く。2~3人あとに欧米人らしき観光客も。前に並んだご婦人に、「これは何ですか?」といろいろきいている。わからないけれど、とりあえずなんだろう?という感じで並んだようだ。そしてその英語でのやりとりを見て、面白いと感じた。「だんご」を知らない人にどう説明するか。そして伝わる、そしてどこから来たの?どれぐらい滞在するの?などなど楽しそうに世間話が続く。自分がもし欧米人だったら、やっぱり並んでみるだろうな。普通に英語で会話をする人たちを見かける場面をみつけ、東京も変わったと思う。
国籍を越えた、ちょっとした非日常が交差する。東京は確かに立派な国際観光都市だ。爆買いはしてくれなくていいから、日本のいいところをみつけて、いい経験をいっぱいしていただけたら。とにかく東京の週末は、国際的だ。いつまでも安全できれいな町でいることが課題だと思う。

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