お金稼ぐのはむつかしい。なのに・・

多くの人は、自分で働いて収入を得て、それで生活をしている。多少嫌なことがあっても、苦しくてもしんどくとも理不尽と思っても、それでも生きるためにがんばって働いている。もちろん仕事が楽しくてという人もいるし、私も自分の仕事は大好きであるけれど、それでも自分の力で生きる、生計を立てるということは本当に大変なことだとおもう。
生まれながらに恵まれた環境にいる人には、その苦労はわからないかもしれないが、多くの人は働いて生きる。それが当たり前の生き方だ。
時給で働こうが、月給であろうが、ギャラであろうが・・とにかくそれを得るために仕事をする。お金が入ると無駄遣いをしてしまうこともあるかもしれないが、反省をし、もっと節約しようと心改める。それは自分が苦労してつくったお金だから、あるいは働いていただいたものだから・・大切なお金だからだ。

それなのに、税金という人が納める公的なお金を好きなように使い、その言い訳をし、世の中を混乱させ、その責任をとって辞職をされるという方。
もちろんとっととやめればいいが、退職金をもらうのですか?
しかも、その人の非常識な行動のために選挙をやり直すために50億もかかるというが、これも税金で賄われる?
やめる人はお金を払ってやめてほしい。責任をとるということはそういうことではないか。

と、思わず怒ってしまう今回の事件。

世の中のぬるさ、ゆるさ。
人のために、町のために・・・とシャーシャーという口先職業の人たち。

お金を稼ぐのは大変なこと。
毎日工場で、店で、会社で・・・せっせと働いている。
それをやりながら、周囲のための活動をしている方。
そんな人に頭が下がる。そんな人といろんなことを共有したい。

生きることの大変さを思う日々。
口先でなく、体で、行動で思いを伝えたいものだ。

と、庶民の私は、怒りが収まらない。と、送られてくる税金の納付書を
見ながら・・・思うこのタイミング。

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「印刷」という仕事に、改めての誇り

印刷会社の存在意義。そこで働いた期間があるからこそ、よく理解できる。
20年以上前の話であるが、「印刷の発祥の地ドイツに比べて、日本の印刷業界は地位が低い」と業界の専門家たちが嘆いていたことが今も強く胸に刻み込まれている。
そう、グーテンベルクの活版印刷の発明により、キリスト教は「教会へ行って牧師さんから話を聴く」という教会ありきの存在であったものが、マルチン・ルターにより、聖書は読んで自分で理解し、祈る。という様式に変わった。この宗教革命、印刷技術が普及しなければ実現しなかった。日本の明治以後のキリスト教の布教も同様だ。
印刷あっての思想の伝達、伝播。口述のコミュニケーションから、目に見え、また記録保存できるコミュニケーションへと進化した。このことは人類史史上物凄いことだ。
そして20世紀になり、情報革命はさらにITの世界へと進化し、印刷の世界は現実的には生き残りが厳しい・・そんな世の中になってきた。
今回、久しぶりに印刷の歴史を俯瞰する機会があり、印刷物のすばらしさを改めて感じた。まさに、モノづくりの世界~印刷技術~と、メッセージづくりの世界~コンテンツ・デザイン~の融合によって成立、発展してきたこの世界。そう、グーテンベルグ時代の書物の書体たるや、とても美しい。見た目の美は、この時代からこだわりをもって希求されてきた。
印刷の仕事は誇りである。20年前自らがかかわった本が今も手元にある。40年前に
買ってもらった楽譜が今も宝だ。形になっている以上、記憶をきちんと取り戻すことができ、感動がよみがえるのだ。瞬間ではなく、永久に。残すコミュニケーションについて久しぶりに考えさせれた。自分が一定の期間、かかわってきた仕事の領域に、今一度誇りをもちたいと思う。
もちろん、刷って納品・・ということに終始するだけではいけない。あくまでも本来の目的をいつも忘れずに・・。

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気になる「不適切」

最近、各メディアや政治家たちの発言の中で、お詫びや弁明、指摘の場面で頻繁に「不適切」という言葉が使われている。1年前、2年前・・・過去をふりかえっても、この言葉を耳や目に残るほど見聞きした記憶はなく、最近の流行りことばのようにも思え、また一見、正しくもあり賢明に見えるがそういっておけば問題ないといった「便利なことば」としても用いられているようにも感じることがある。
そもそも、何が何に対して適切なのか。をその発言者はわかっているのかな?という疑問、また私からすれば「不適切」以上に「非常識」だと感じるときにも「不適切」が使われている。「大丈夫?」という言葉が意味の正しい理解なしに、軽く使われていることと同じ空気も感じる。
適切な表現は大切である。一方、適切な行動とは?その場面場面、瞬間瞬間において、適切な最適な行動をとることは勿論大切だ。いわんや、公的なお金で仕事をする立場であれば当然のこと。しかし、瞬間瞬間にその適切な行動ができるかどうかは、まさにその根底にあるその本人の常識であり、その人の生き方、いきざまにかかっている。
口先で「不適切」というのは簡単なことであるが、そうならないためには、もともとの人間教育が必要なのだと思えてならない。
学歴やキャリアといった一面的な価値ではなく、「人としてどうなのよ?それ、いいの?」ということがわかる人こそが、責任ある仕事を担うべきなのだ。
今は、その人の行動や言動が不適切なのではなく、人として・・・の問題だ。だから生まれ変わるか、よっぽどの更生をしないと本当の反省は難しいだろう。
間違っても、その言葉だけが流行らないように。
常識ある人間になれるよう、「適」の意味がきちんとわかり、行動に生かせる人になれるように。まずは自分のことを見つめなおしたい。

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「もやし」という最強の販促ツール

どこかで用事があると、そこの地元の食品スーパーに寄るのが好きだ。地元野菜やその店の強みを知ったり、売り方の特徴を知るには、NBチェーンのお店を見る以上に勉強になる。その店単独での生き残りをかけた細やかな工夫やまた、残念なところに出会い、改善点を考えるのはいい教材でもある。
さて、日曜の午後、出かけたある都内の食品スーパー。中央線沿線の駅近くにある。品揃えがユニークなため、何度か利用している。電車に乗っての生鮮品運搬は避けたいが、直通であるため、さほど不便さは感じない。
野菜売り場・・うーん、さほど安くない感じ。と思いながら迷っていると、突然「もやし10円」のPOPとかごに入ったもやし群を発見。これまで最安値では19円は知っているし、買ったこともある。もやしは、安さが特徴であるが、しかしなかなかの優れものであると、私が好きな野菜のひとつだ。また子供のときや、学生時代・・お金のなかった時代にお世話になった野菜ということで愛着もある。「10円?」腐りかけ?手にとって商品を見ると、しゃきしゃきしていそうで、新鮮だ。パッケージには「こだわり八百屋のもやし」と書かれている。緑豆使用、種子はさすがに中国産であるが、加工は関東圏だ。どんなもんか?と思いながら、気が付けば2袋掴んで、買い物かごに。そのあと、私の中でその店は、安い店だという思いこみが始まり、ここで買わなくちゃ損損という気持ちになり、さっきまで安くないとか思っていた野菜、そしてその店が強いと評価している魚類も含め、気が付けば買い物かごがいっぱいに。そして5000円近い買い物をしていたのだった。
なんだろうか。この満足感は。結局たくさん買ったのであるが、10円もやしのおかげで、自分は良い買い物をしたんだと思い、しかも地元でもないのにポイントカードをもらったりして、また来るつもりになっている。
ネットで検索するのもバカバカしいが、なぜもやしが安いのかを疑問に思っている人が多いことも知り、「もやし」の経済的な効果、効用について改めて考え、感心した。
その10円もやし・・・大丈夫かな?と思いながら、ナムルにしてみる。ま、何があっても10円だから・・。この安心感もとても不思議だ。そして、やっぱりおいしい。不思議かつ最強の野菜だ。

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「二人」という単位を生きる限り、心ゆくまで

心の姉さんのような存在の人がいる。久しぶりにお会いすることができた。仕事での相談あるたびに、銀座の三越で、ときには実家にまで・・といろいろご足労いただいてきたが、最近は時間がとりづらく、外出もままならない状況であったので、今回は近所の駅まで出向き、久しぶりにお会いすることができた。
その方と旦那さん、二回りも年が違うそうだ。年が離れているから・・とは聞いていたが、親子に近いほどの年齢差。そしてその旦那さんは、今90歳で、がんとの闘病中。心の姉さんは、献身的に彼(ねえさんは、旦那さまのことを「彼」と呼ぶ)」に付き添い、寄り添い、日々、静かに暮らしておられる。そういえば、癒しのために犬も飼うようになったらしい。「彼が最期は自宅で。と希望するので」ということで、病院ではなく自宅でゆっくり過ごす。訪問看護のサービスも受けながら、24時間体制。深い睡眠がとれなくて・・とおっしゃるので、本当にご夫妻とも大変だと思う。
「一緒に出掛けたがるのですよ。車いす用の車も手に入れました。本が好きだったので今はもう読めないけれど、とにかく本屋へきて本を買って、食事をして・・ということもしています。子供がいないのでね・・・」・・・近況を聴きながら、自分の老後を重ねてみる。
「亡くなったあとは、お骨を沖縄の海へ・・・と言っています。多くの戦友がそこに眠っているからということで・・。」目に涙を浮かべながら、愛するパートナーのことを話してくださる姿に心うたれる。
相方って、大切だ。私にとっても相方はかけがえのない存在だ。
いつかその単位が終わる、いずれかが欠けてしまう日が来るのだろうけれど、それでもこの単位は大切にしたい。

自分で選んだ道、自分で選んだ相手だから、生きている限り一緒に生きる。

いっぱい優しく、できることをして、そして、自然に、普通に。
心から、このご夫妻の静かな幸せを、お祈りしたい。

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がラスの天井?ジェンダー?

アメリカの大統領選が熱い。少なくとも選挙戦自体のプロセスがわかりやすい、スピーチが面白いという点では、日本の選挙より何百倍も興味深い。
個人的には最後まで戦い続けているサンダー氏に好感をもっているが、実際にはヒラリー対トランプの対決になるようだ。
さて、今回、ヒラリー・クリントンが民主党の指名候補になったことが、主要政党で女性初の指名候補ということで沸き立っているとか。これまで女性が突き抜けることができなかった「ガラスの天井」を突き抜けたなど、アメリカのマスコミは報じ、年配の女性たちからは、ヒラリーが女性初の〇〇になることは夢の実現だそうだ。そして、今回の選挙は「ジェンダー」が争点になるだろうともいわれている。
私は、この見方にはちょっと懐疑的だ。
結局、男か女か、黒人か、あるいはその他のマイノリティーか・・などが一番大切なことなのか?男でも、女でも、何人であっても、その才能・器がある人が選ばれれば良いことだ。またヒラリーは女性だからといっても、いわゆる普通の庶民感覚をもつ女性とは違う。大統領夫人というキャリアがあってこそのという背景もあるから、単純にここで、女性初と盛り上がるのはいかがなものかなと思う。国会議員の数も女性が多いとか少ないとか、そんなことも関係ない。
男でも女でも、その仕事にその役割にふさわしい人が就けばいいだけだ。
だから、社会全体が、「女性が、女性が」と言い続けている以上は、大変遅れているという感じもする。
そういう意味で、実は、アメリカも遅れているのかも・・。それに追随する日本はもっと・・である。

と今、思えるのも今は女性にとって生きやすい有り難い時代だからなのかもしれないが。これはその時代、その性に生まれたものにしかわからないことだ。
ジェンダーと社会の関係は本当に難しい。ま、いずれにせよ、世の中の変化を感じながらの選挙戦。若者の感じ方も大切にしなければ。

さて、トランプがこれから、どこまで変化するのか、も見どころだ。
誰の心をつかみたいのか。そのために何をするのか。
この何か月間、広報という視点でアメリカの選挙戦を楽しみながら勉強させて
いただくとしよう。

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モチベーションを上げる、その「一言」

物書きは話すことも得意だということが最近わかってきた。言葉の職業だから、手で書くことも、口で話すこともアウトプットの形は違えど、伝えたいことはひとつだから、書ける人は話せるのだろう。おそらく、その逆も真のはず。
メモをとらなくても、すいすいアタマに入ってくる、90分という時間がアッという間に感じられる。そんな講義を受けた。作家の方の講義は、パワーポイントや映像をつかう人はほとんどおられず、コトバ一本で勝負しているところが潔く、これぞコミュニケーションの基本と思う。
そして時代が変わっても、コトバの力は人が人として生きる以上、最大かつ最高の武器にもなることも再認識する。
さて、ある作家さんの講義。「創作脳」についてのレクチャー。なんだかこれまで自分がやってきたこと、やろうとしてきたこと、今まさにやりかかっていること・・すべてを肯定してもらえているような内容で、わが人生、間違っていないなと思えてきたほどに、うれしくなり、勇気もわく。
その講師とは実は、2~3度、ちらりとだけ会い、名刺交換をしたことがある。
そして今回は授業を受けさせていただく。
「こんにちは。マーサです」というと、その先生は「もちろん覚えているわ」という目で合図し、「楽しみにしています」と背中を押される。そして、私の顔を見て「作家の顔になっているしね」と一言。
先の投稿も顔について書いたが、今回は自分の顔か~。
顔というのは第一印象に残るコミュニケーションツールなのだ。

実は90分の講義の内容もさることながら、この一言が私のモチベーションをかなり引き上げた。顔で決まることはないと思うが、その世界で生きている人に、同じ匂い?輪郭?形状?をかぎ取ってもらえたならば、うれしい限り。
作家の顔、作曲家の顔、マーケッターの顔、シンガーの顔・・。全部同じ顔に見えるのかそれぞれ違うのか?
とにかく、何気ない一言で、「私はできる!」と妄想を抱きはじめることができるのだ。私も、今後、誰かを一言でモチベーションアップさせたいな。

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「顔」と「不適切」

ちょっと前まで自信に満ちた顔をしていた人、大きく見えた人が最近、小さく縮んでいる、顔つきが変わってきている。
民衆、住民の幸せのために働くことを誓い、選挙のときに輝いていた人。蓋を開ければ、自分のことばかり。公職であり、税金を使い仕事をさせていただく立場でありながら、あきれ果てる生活感覚、公私混同。側近の秘書たちは、この何年間、どう思いながら仕えていたのだろうと想像してしまう。きっと違和感を感じ、軽蔑しながら、仕えていたのだろう。地方公務員の人たちはそこらへんはクールで賢明だ。「それでいいんですか?」といった部下はいただろうか?

人の顔はその状況で見え方が変わってしまう。
おそらく見る側のフィルターが変わるからだと思うが。
今、彼は最高にみっともない。醜いおじさんで、この上なく恥ずかしい。
そのことを自分がわかっているだろうか?
鏡を見て、そんな自分に気付くだろうか?
家族は?「もう、かっこ悪いから、やめたら?」ともう言っている?
こんなおっさんのために、また税金を使って選挙をされること自体にも怒りが生まれる。あんたのせいでそうなるんだから、あんたが選挙代、一生かかって払いなさいよ。と顔を見ると言いたくなる、そんな気持ちだ。

政治家という仕事は何なんだろう。
リーダーって何なんだろう?今回もまた思ってしまう。
マスコミも周囲もいつまでも重箱の隅つつきをしていないで、違う方向に世の中に
気づきを与えないと・・。今こそ、真のリーダーに現れてほしいところ。
不快感、不信感が拭えないそんな梅雨シーズン・・。

とにかく「顔」は大切だ。人に良くも悪くも感情をもたらす。それはインプットされる情報により、見え方が変わる。

最近、街角に立ち始めた選挙ポスターの掲示板を見ながら、「顔」をよく見なければと思う。そして、作り物の顔は、見たくないとも思う。ビフォア、アフターで変わらない顔の人が大切だ。

とにかく、みっともない人、恥ずかしい人は世界都市TOKYOのリーダーに「不適切」だ。
理性と知性と愛がにじみ出るリーダー、この業界には期待できないのかな。

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生涯現役が当たり前の生き方の手本

ブエノスアイレスの空港から市内へは、安全安心第一でいきたいため、送迎の車をあらかじめ手配する。今回空港に現れたドライバー。以前にもたぶんお世話になっている顔だ。年配の人なので、覚えている。オールバックの白髪が記憶に新しい。
彼は重いスーツケースを車に積んでくれたあと、運転席に座るとき、とても足か腰が痛そうで、座る動作がしんどそうであった。じいさん、大丈夫かな?運転、大丈夫かな?正直、心配になった。ま、しっかりした会社にお願いしているから大丈夫だろうとは思いつつ、発車。ゆっくりの運転だ。車中、お互い母国語でない英語でのコミュニケーションになるため、またそのドライバーはそんなにおしゃべりな方ではないため、静かな車内。ともすると、彼が居眠り運転していないかと心配になり、いろいろ質問などしながら、とにかく起きていることを確認しながら乗っている・・落ち着かない。
早くホテルに着かないかな~。帰りはもっと若い人にとお願いした方が良いかな~。という思いも頭をよぎる。しかし、そのドライバー、運転は確かなのだ。とても安定しているのだ。
心配することはない、この人大丈夫だ。目的地に近づき、徐々に安心、そして無事到着する。そして帰国の日。復路のドライバー、まさかと思ったが、往路と同じ運転手であった。
彼の運転を知っているため、もう不安はない。そして3日前に乗ったばかりなのでお互いに打ち解けている。車中でいろいろ聞いた。年齢は74歳とのこと。日本であれば個人タクシーならば、そういった年代の方もおられるだろう。そのドライバー、名前はロベルタ。タンゴも習っていたそうだ、奥様は今もタンゴを踊るとか。若いころはサッカーもやっていた。アルゼンチーナは皆そうだ。サッカーが大好きだ。ボールひとつでみんなで遊び、走った。楽しそうな、熱狂の様子が浮かぶ。
若いなあ~。そして彼らは肉をよく食べる。
定年とか、年金といった制度が怪しいアルゼンチンの社会。老人も普通に現役で働いている社会。運転を若者に代わってほしいなんて、大変失礼な発想であったとロベルタと話していてつくづく思った。そう、若者より経験があっていい仕事ぶりだ。

一生仕事をし、現役で仕事をする。そんな人生が健康的でいい。
私自身も、生涯現役でいく予定であるから、このブエノス社会はとても参考になる。
いい年を重ねている人が多いこの国。

空港に着いた。ロベルタと笑顔で握手をし、また今度。どうぞ気を付けてね。とお互いに言い合い、彼の車を見送った。

豊かさとは、贅沢をすることではなく、自分の足で、アタマで自立することができることだ。

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「まだ」と「もう」の攻防

一緒に仕事をしている20代の女性と移動中に話をする。なんでも近々出張で初の海外体験をするとのこと。「これまで行ったことないんです。これまでも特に行くことはないな~と思っていたのですが。。」と、戸惑いながらも楽しみにしているようでもある。
「私も初めて海外にいったのは25歳のときの出張でしたよ。その1回から人生変わりましたよ~」と答えながら、自分の25歳の頃を懐かしむ。
そう、まさに25歳の5月であった。初めての出張は印刷業界でのNY市場視察。この頃はこういった視察をグループでという時代だ。
NYに慣れることがなく、酒と米がある日本にすぐ帰りたい~、と最後までのたまっていたおじさんたちもいたが、私にとってはこれが文明開化のはじまりとなった。
あれから27年。海外に何度足を運び、さまざまなことを経験、吸収させていただいてきたことか。
そんなことを思いながら、久しぶりにブエノスアイレス行きの往復路、ヒューストンで飛行機を乗り継ぐ。ふと、「27年前が初渡航だったのか~」と空港のトイレの鏡を見ながらしみじみ思い、25歳の自分に戻る。
もう27年か、まだ27年か。気が付けばいつでも、「まだ」と「もう」が攻防する日々の暮らし。「もう」・・といってしまうと、もう幕引きが近いような感じがし、「まだ」といえば、これから未来がある感じがする。
できれば、これからも「まだ」が「もう」に負けぬように、日々若い気持ちで向かっていきたい。25歳のときと、今の自分の違いはこの間に多少の経験を積んだということだけ。まだ生きている、まだ生きる、まだやれる。これらの気持ちは25歳の時以上に強くなっていると思う。

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