本音、本気のコミュニケーション。

仲間と進めている、とある案件。お客様の案件ではないため、
とくにこの日までにという期限はなく、当初は急いではいなかったが、
まあ3か月もあったらできるだろうと思っていた。
しかし、やはり日々生きているといろんなことが起きるため、
ついつい、そちらを優先。
気が付くと大した進捗もなく、時間だけが経っていき、さらに他のことが
優先され、3か月を越えて、このままいけば、何もなく半年経ってしまう・・。

さすがに、危機感をもった。
このままではいけない!とチームのメンバーに再度声をかけ、
改めて期限を決め直して、まずこの日までに全力投球しよう!と再稼働
することにした。
最近お会いした方も、仲間で仕事をしていることで、善意や協力体制は
疑いがないが、ビジネスライクにはなかなかことが進まないという現実に
直面されていたが、これは決して他人事ではない。

仲間であればあるほど 甘えが生じることがある。
それではいい仕事はできない。
ときに厳しく、言いづらいこともいいながら、でも前向きに進む。

本音のコミュニケーションは、ときとして信頼にひびが入ることもあるが
本気であれば、それは伝わるし、ときにぶつかりあうことも大切だ。
もちろん思いやり、誠意、配慮、助け合いが根底になければならない。


また、人と仕事をするときは、我慢と忍耐も必要。お互いさまのことだ。
お互いしっかりコミュニケーションして、腹におちて、再スタート。
「とにかく、まず5月末までにできることを全力でやりましょう!」
実は絶対の期限ありきではないが、期限を決め、計画を立て、
緊張感をもつことで、行動に勢いがつく。そして早くやり終える。

仲間だからこそ、本音をぶつけることもできるのかもしれないが、
仕事を一緒にする人は、基本みんな仲間だ。
表面上のやりとりでは、成功しない場合が多い。
パワーを要するけれども、ときに本音、ときに本気を見せる。
緩急のメリハリはもちろん大切。

一体になる。チームワーク。
言葉でいうのはたやすいが、苦楽をともにしてこそ、
ホンモノになる。

今回もいい勉強をさせていただいている。
一緒にがんばっていただける仲間がいることに
感謝をしながら。

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ステージが変わっても。

現役時代、組織の頂点に立ち、大きな仕事を、人を動かしてきた
人たちも、いつしか定年になり、その肩書きなしの人となる。
もともと、肩書はなかったと思えば良いが、いつまでもその肩書きが
ないと生きられない人もいるし、それにこだわらずまったく新しい
生き方をはじめる方もおられる。

コロナ禍に定年となって、念願の起業をされた方がいる。
なかなかコロナで人に会えず、営業もできず、足踏み状態。
また、組織にいたときとは違って、いろんな方に気を遣い
人間関係を大切にしながら・・・と、昔とは勝手の違う道を
歩まれている。
もしかしたら、こんなはずじゃなかったと思うこともあるかも
しれない。

組織のなかで、関係を広げ仕事をしていくのと、
フリーになって、仲間と新たな仕事をつくっていくのは
違う苦労があることも、やってみてわかってくる。
肩書きなしで、どこまで自分らしく、仕事をやり切ることができるか。

最近、定年された先輩たちと話していて思うのは、
人生のステージは、死ぬまで変わっていくということ。
だからそのステージごとに衣装も、演目も
環境、相手に合わせて変えていかねばならないということ。

もちろん、その根底には、新しいステージに立つ自分の
コンセプトが必要だ。

豊かな経験だけでは、前に進まない。
新しいステージに立つ、自分の姿をイメージして、磨き、アピールすること。

ステージが変わっても、目を輝かせ、自分らしくいきいきと活動するために。
やっぱりコンセプトだろうか。
自分は何がしたい?何をすべき?

私自身も、これからの自分について、自らを問い続けたい。


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たまにはCANヅメになる。

出張や外出が多い暮らしではあるが、たまに、この日は
1日内勤しよう!と決めたら、外出せずに1日パソコンに
向かっている日もある。決めないと時間は作れず、また
その本業に向かうまでに、雑用がつきもの・・。
やっとこもり始めても、パソコンの前ではさまざまなことが
起き続ける。ひとつひとつと格闘を続ける。
気が付けば12時間以上、いや14時間?途中、ちょっと抜
けて何か他の用事をしたり、コーヒーを飲んだりしたとしても
気が付けば、時計が何周?窓の外はすっかり闇。
とにかく1日中でひとり格闘している。
ひとりといっても、電話会議にはじまり(ZOOMより
電話がてっとりばやいというケースも多い)引き続きZOOM
で打ち合わせ・・・その後はメールでやりとりしながら
考えもの、書き物を進める。

やはり外出すると、気持ちが切り替わってしまうので、
集中して何かをするときは心決めて、こもるに限る。
気持を切り替えないということも、時に必要だ。

カンヅメ。なぜそう呼ぶのだろう。ふと考える。
そして、カンヅメといえばポルトガル。
と、ふとオイルサーディンなどを思いうかべ、
カンヅメとは?と考える。
カンヅメとは、まさにCANの中に何かを詰めたもの。密封したもの。
転じて、一定の空間に長いこと人を押し込む状態。
カンヅメにされる・・というのは受動的であり、
自分からカンヅメになるのは、大変積極的だ。
そう、自分からカンヅメになって、おいしくなるように
努力する日。
そう、CAN=仕事部屋のなかで、あれこれ格闘する。
すいすい順調なことばかりではなく、ときにネットの環境が
悪くなって、対応に追われたり、うまくデータが送れなくて
慌てたり・・・。
どうやら、このカンヅメはイワシくんのように、缶の中で
じっとしていない「動くカンヅメ」だ。

と、バタバタしながら、カンヅメDAYを終え、
心新たに、外に出る日がはじまる。

ときに、カンヅメは大切だ。
集中と分散。緊張と解放。
この繰り返しで、仕事が仕上がっていく。

I CAN!
今日も夢が膨らむ 希望の1日になりますよう。

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コロナに負けず、感謝の100周年。

ずっと気になっていた店がある。
京都市内の老舗レストラン。〇〇亭とか、〇〇軒と言う名が付けば
歴史もあって、味は確かな洋食屋さんというイメージがある。
京都にはそんなお店がいくつかある。
私が探していたのは、一養軒と言う名のお店。
もう数年以上、足を運び入れておらず、その場所も不確かになってきた。
周囲が変化して小さな路地を入っていくその目印もわからなくなって、
何度通っても店が見つからず、とても気になっていた。
「あれ、あの店、どこへいってしまったんだろう?」
コロナの前に行っておけばよかった。後悔もしていた。
15年以上前、祇園祭りの頃にコンサートをやっていた木屋町のバーに
常連さんとして来られていたその洋食屋の店主。そこからのつながり。
しかしそのバーもママの高齢化ですでに閉店。常連さんたちと会うこと
はなくなった・・。
そして、この洋食屋さんでは、元上司が私の独立15周年だったか、
お祝いをしてくださった・・・。
断片的な、私の京都木屋町界隈の思い出が湧いてくる。
元上司が亡くなった今、どうしてもその洋食屋さんをみつけなければ
・・・とそんな気持ちになっていた。
四条河原町付近での仕事の合間に少し時間ができた。
「よし、もう一度探そう」
そう思い立って、四条木屋町を北へ進み、路地をのぞきながら
うろうろ。「おかしい、ないな~」今度は先斗町から回る。
途中で、お仕事前?の芸妓さんたちとすれ違う。ああ、京の町が戻った
とそのことにも、ちょっと興奮、さらに使命感が募る。
1本づつ路地をのぞく。違う店の前を通ったり、実は路地のつもり
がお店の玄関だったりするので、緊張しながらとある路地を進む。
すると、「一養軒」の懐かしい看板を発見。
「あった!あった!」
いろいろ張り紙がしてあるから、一応営業されているようだ。
「コロナのため、予約のみ・・・営業は9時まで・・・」と
書いてあるから、今も営業されているんだ。
窓があいていた。まだ営業時間前だ。
「ごめんください」勇気をもって中に声をかける・・・。
すると、
「あれ?あ!マーサさん?」
懐かしい店主がマスク姿で返事をしてくれて、迎え入れてくれた。
「ああ、やってはったんや、よかったよかった」

ああ。見つかって良かった。
ずっと気になっていた。
京都の赤い糸の大切な1本がここでつながっていた。
しばし、お話しをする。
不思議なものだ。ずいぶんとご無沙汰しているのに、
マスターは私との会話やその当時のことを全部覚えておられる。
客商売とはえらいもんだ。と、心から感心する。
店を見ると、100周年の文字が目に飛び込んでくる。
おそらくお祝いのお花にさしてあった名札が残してあるのだ。
「へえ、100周年ですか?何時ですか?」
「今年の2月です。おかげさまで・・・」
「いやー、知らなかったので、ごめんなさい」
このコロナの中、よく100周年までがんばって営業されてきたな~。
観光客も来ない、地元の人も時短や自粛で外食利用が激減したなかの
100周年・・・。
3代目のこのマスター。なんとご自身の代になってから50余年だそうだ。

時代が変わっても、変わらず会えた。
本当に本当にうれしい、再会。

今度は、元上司をしのんで、仲間たちと静かにグラスを傾けたい。
美味しい かにクリームコロッケをつまみに・・・。

京の100年レストラン。1日も長く、営業の灯をともし続けてほしい。



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やっぱり愛の元気人!

今年50歳を迎えるお仕事バリバリの
女性と初のZOOM面談となった。
実は、その方のお姉さまからのご紹介である。
家族からの口コミ、ご紹介というのはとても
心強い。本当に信頼されていなければ、
そのルートからの口コミはないと思うからだ。

会社員卒業後の自分の生き方を見据えて、
今から準備をし、うまく自分のやりたい道に
進んでいけるための応援だ。
彼女の現在のお仕事と、これからしていきたい
夢についてお聞きしながら、
自分のことも少し振り返りながら、話す。
35歳で脱サラ(卒サラ?)してきた自分と
50歳以降も会社員を続けながら、今後の
準備をしていこうとする彼女とは、
そのタイミングは少し違えど、
自分のやりたいことで、人のお役に立ちたい。
人を元気に、笑顔になってもらえるお手伝いが
したい・・・
との思いがある点では、共通している。

何時のタイミングまで組織でお世話になるか。
それは時代にも、適正にも、環境にもよるが、
組織で働きながら、いずれ自立を目指すため
準備を始めることは素晴らしいと思う。

ZOOMでの1時間面談。
画面から今にも飛び出してきそうな
手振り身振りと表情豊かな彼女に
真の元気人を感じた。
そして、
久しぶりに愛の元気人であり続けようと
思った。
これからのおつきあいが、とても楽しみだ。

夢を語れる人生、幸せだ。

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マルシェの原点から楽しく学ぶ。

コロナの影響は、人々の消費スタイルの変化にも及んだ。
テイクアウト、デリバリー、ネットをはじめとした通販の進化は
コロナのプラスの影響。
一方、対面販売、外食、密接かつ濃厚コミュニケーションを必要とする
サービスは大打撃。

苦難の約二年半を耐え、コロナ感染が少し収まり、
人が自由に往来し、少しつづ集まることができるようになって、
町に賑わいが戻り、笑顔があふれるようになった。
外出したいし、人と話したいし、一緒に食べたいし、交流したいし・・・。
長い我慢から、やっと解放されたこの5月。
マスクの上からでも笑顔がわかる。

そんななか、市場、市とよばれる場に足を運んでみる。
対面販売の原点である。
たとえば京都の錦市場。
今はまだインバウンドが戻っていないおかげで、ひと昔の
活気ある市場が復活した様相で、とてもうれしくなる。
あの狭い小路を歩きつつ、京の台所から学びをいただく。

たとえば、バナナの売り方。一山全部を籠に盛って売るだけでなく、
3本を1カゴに、モンキーバナナ4本を1籠に盛って100円などと
いった売り方もしている。おひとりさまには、また食べきりたい場合には
ちょうどいい。あ、気が利いているな。
ある店では、大きめの袋に入った(おそらく仕入れたままの)昆布飴を
そのまま400円とか500円とかで販売しているが、
別の乾物屋さんでは、同じ商品を少しだけ小分けにして100円、
その倍入っていたものを200円などと工夫しており、各店の売り方の
工夫、センスを感じた。
初めて買う時は味がわからないから、小さい方がいい。と言う方もおられる
だろう。
お客さんがどうしたら、買いやすいか。と同時に、
どうしたら、早く売れるか?
の両者の目線が大切だ。
あ、小売りってこういうことだ。と多くの発見をもらえる市場。
「あ、今焼いたばかりやしね~」
魚屋のおばさんの声がこだまして、この焼きたての言葉についつい
つられて、店を覗いてしまう。
魚屋さんは、生の魚だけでなく、加工品を多く売る。自家製、焼き立て
作り立てというのも、小売りのポイントだ。
「じゃ、ひとつもらっときますわ~」
気づいたら、お金を払っている。
「おおきに~」
の言葉がこだまする。それが小売り。それがマルシェ。
わくわくするのは、この空気感もあるのだろう。

インバウンドで混みあっていたときには、そんな細かな気づきも
目に入ってこなかった。積極的に足を運ぼうとしなかった。

ネットも、非接触もいいけれど、やはり人肌を感じる市、商店が
大好きだ。
そう、買いに行くだけでなく、コミュニケーションを楽しむ。
店とは、売買の場としての機能だけでなく、交流の場であり、
元気の交換の場である。
昭和の面影を残す商店や、さまざまな「市」がなくならないように
受け継ぎ、応援していかねば。と思う。

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ひとり何役できるか?

最近、あるホテルのことが、気になっている。
コロナの影響で営業制限が続き、スタッフも削減。
日本有数の観光地、京都は近年、観光で繁栄してきた町であるため、
その影響は町の財政を揺るがすほどになっている。
深刻な事態だ。なんとか応援したい。

大変厳しいこの時期を過ごされ、やっとの回復の兆し。
宿泊客もレストラン利用者も増えてきた。
本当に何よりだ。
ある日の夕暮れどき、バーの前で、ひとりのスタッフが立っていた。
バーテンダーさん?呼び込み?をされている。
「本日より営業開始しております。よろしければどうぞ」
なんでも2年間営業していなかったが、やっとの再開で
お客様にそれを伝えるために、お店の入り口で案内を
されていたのだ。
その方の声掛けが気になって、そのバーに入ってみる。
初めての利用。コロナがなかったら、入ってなかったかも
しれない。
「店の前に立っておられたので、入ってみようと思って」
と告げるととても喜んでくださって、会話も弾んだ。
そのスタッフは、昼間は隣接するカフェレストランで
勤務されている。
昼はレストラン、夜はバーと一人二役。
限られた人数でうまくシフトを組み、回しているようだ。

一方、そのホテルではコロナ禍での新たなおもてなし企画として
敷地内の中庭で、夕方から焚火をしてコーヒーを
もてなすというサービスを開始している。
夕暮れから焚火とはなかなか素敵で、近寄ってみる。

2名のスタッフが担当されている。1名は黒服で、1名はアウトドアのスタイルだ。
そのお二人、1名は人事総務の方、もう一名は国際営業の方であることがわかった。
できる人が、何でもやる。
おひとりはボーイスカウト経験者であるからキャンプの知識も豊富だそうで、
まさにそれがコロナ禍の新サービスに活かされたというわけだ。

火があることで、人が集まってくる。

コロナ禍のなか、お客様に喜んでいただく企画を考え、それをうまく回す工夫には
人の有効活用が不可欠だ。新しいことをやるから、人も追加という状況ではない。

アウトドアスタイルで、焚火に新たな木を追加していく後ろ姿を見て、
コロナの苦労から発想された新サービスに感動するとともに、皆さんの努力に思わず
じんわりした。

柔軟に生き抜くためには、これしかできない。
では通用しない。
もてる力を合わせて、いかに工夫するか。
ひとり何役もできる。そんな組織は強いのだと思う。
もちろん組織に限らず、個人でも同じだ。

私自身も、何役できるか?
臆せず、その役柄を増やしていこうと思う。

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だらだら、バタバタを越えて。

やっぱり、どんな仕事でも、取り組みでも
だらだらやるのは、性に合わない。
これを、いつまでにやる!このようにやる。
と物事をやると決めたら、それに向かって
まっしぐら。どんどん前に進めていきたい。
だらだらやっていると、時間だけが経っていき、
人生を無駄にしているように思えてしまう。


人さまとチームを組んで取り組むときも、やはりスピード感をもって
ひとつひとつクリアしたい。
時間をかけて無制限に・・というのは、どうも自分のスタイルとは違うようだ。
もっとも、「じっくり」時間をかけることが必要なこともある。
でも、だらだらと、ゆっくり・じっくりはまったく異なる。

目標、計画、実践、見直し。そして、
自分の取り組みを俯瞰してみる瞬間にほっとしたい。
人生を観覧車のように生きるためには、
日々の行動も、観覧車のごとく、止まらず回していかねば。

もちろんドタバタせずに。
追われるのではなく、自分からゴールに追い込む。

気持ちよくいきるために、
だらだら、バタバタを越えて、
スマートにしっかり前に、進もう。


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自分の偉人を増やす。

情報の洪水のなかで、おぼれない。
こっちの防災も意識して生きていかなければ、
心の生命力が萎えがちな、この社会。

ゴミ多き情報のなかで、何を選び取るのか、取らないのか。
ゴミ拾いが地球環境に良いのであれば、せいぜいすべきことであるが、
情報のゴミ拾いは、あまり自分のためにならないような気がする。

そんなことに時間を費やすよりも、本当にためになる知識に触れたり、
考える力を身につけたい。
そんななかで、ふと子供の頃に読んだ、世界や日本の偉人たちの伝記
のことを思い出す。
初めて本を手にとってから、すでに半世紀経っても、
その人のことを凄いと思い、そうなりたいと思える。
例えば、私の場合、ベートーベンを筆頭に、あと記憶に残っているのは
ヘレン・ケラー、野口英世、豊田佐吉・・・。
それらの伝記を今改めて紐解き直すのも良いだろう。

自分が生きてきて、なるほど、その偉人たちの人生はこうだったのだと
改めて知ることで、子供の頃とは違う発見もあるはずだ。
そして、大人になった今、子供の頃には出会えなかった自分にとっての
偉人を探してみることも良いと思われる。

心の探訪をしながら、さらに自分を深めていく、今からでも、その人に
習って、自分の道を切り開くきっかけにする。
この行動は重要だ。
大人になってからの私の偉人。
フランシスコザビエル、マザーテレサ、ド・ロ神父、藤田嗣治、遠藤周作・・・・。
ちょっと偏っているだろうかも?それは良い。偉人は、人によるのだから。
世の中には、教科書に載っていない偉人もいっぱいいる。

私のなかの偉人。この人は!と思う人のことを毎日描いて、前に進む。
完ぺきな人間はいない。
ただ尊敬できることをみつけることが大切だ。
時間を経ても、素晴らしいと思える人。そんな偉人が人生の手本になる。


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今こそ、大きな人を目指す。

こんなことをよく言われてきた。
「今尾さんって、近づくとこんなに小さい人なんですね。
もっと大きい人かという印象がありました」
そう、たとえばステージの上とか、遠くで見ているときは
大きな人に見えるらしい。

でも、実際に、目の前に現れると小さいそうだ。
そう、確かに小さい。
この言葉は、自分では、勝手に褒め言葉だと思ってきた。
人に大きな人と思われる、その第一印象は、一定の評価であると
思っているからだ。存在感を示せたという意味において。
声や表情は、自分を大きくも小さくも見せるのだ。
実際、身長は最近150㎝あるかないか(年々縮んでいく?)
の私であるが、実際大きな図体であったら、きっとまた印象は
異なってくるだろう。

今、改めて、
「大きい人」を目指したいと思っている。

その「大きい人」とは・・・。
常におおらかであり、どんと構えていること、自信を備えていること。
小さなことでくよくよせず、大丈夫、大丈夫と
常に肯定的、積極的であること。
自分の小さな世界の殻をうち破り、未知の世界にも目を向け、
自分の有限を自覚しながらも、世界に飛び出していこうと
冒険心をもち、行動すること。
問題、課題があっても、自ら進んで解決の道を探る人。
そう、夢をもって前に進もうとしている人。
周囲にも元気や勇気を与えることができる人。
そんな人のことである。

一方、小さな世界の中、迷路に迷って、毎日ぐるぐる
同じところを行ったり来たり・・・。
出口を自分でみつけるのではなく、誰かがそれを
示してくれることを待つ、受け身な人。
自分のサイズを変えようとしない、受け身の人・・・。
それが「大きな人」の真逆の「ちっちゃい人」であろうか。
そうはなりたくない。

小心者という言葉があるが、
大心者という言葉もほしい。

今、改めて大きな人を目指したい。

この混迷の時代こそ、大きな人でありたい。
ゆとりをもって、人に対しても優しく思いやりを・・・。

そう、人としての「器の大きい」人だ。
こんな人になりたい。

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