挑戦する人に刺激受け。

東日本大震災で被災し、大変なご苦労をされた人のひとり。
大船渡でずっと会社員・役員を経て地域とともに奮闘されてきた。
いつしか「むーさん」とニックネームで呼ばせていただき、
この方の導きにより、震災後
町の老人施設へボランティア演奏に二度伺うことができた。

「自然には感情がないんだよね」
津波のあと、晴天の下、静かに波打つ湾を見ながら、
なんともいえない悔しそうな表情で
そんな言葉を発したむーさんのことは、
今も忘れるこよができない。

あれから、11年。毎年ずっと連絡を取り続けている。
そして、いかに地元のために全力を捧げてこられたかを
遠くに住む私でさえも強く感じていたぐらいだから、地元の
皆様にはもっとずっとわかるはず・・・。
そんなむーさん、このたび長年おつとめの会社を退職され、
次の市長選に出馬されるとの情報を得た。
驚きよりも、そうだろうな、そうされるのが自然だな
と心から共感した。そして、すぐ応援メッセージを送る。

63歳の挑戦とのこと。
出馬するために、3年考えてきたとのこと。
未来のために、地元を元気にしたいとの思いだ。
その情熱と行動力には頭が下がる。
昨年、私の親が亡くなった時の、すばやいむーさんの
心配りがじんと蘇り、まさに利己ではなく、
他己の人であり、思いやり溢れる人であると
あらためてこれまでの交流のひとときが蘇った。

やる人はやる。
しんどくても、やる。自分から前に出る。
やっぱり、人生はそうでなくちゃ!

むーさんの今回の挑戦になんだか元気をもらった。
私もやらねば!
むーさんの地元愛に負けないような、私なりの挑戦とは?

むーさんのこのチャレンジ、心から応援したい!


カテゴリー: Essay (Word) | 挑戦する人に刺激受け。 はコメントを受け付けていません

人生に代行なし。

生きていく上で、それぞれ何かしらの苦痛、苦労はあるはずだ。
一見、他人から見ればつまらないことから、自分の努力では
どうにも変えられないことまで・・。
ときには八方ふさがりに思うこともあるかもしれない。
長い人生、おそらく誰にでもそんな時期があるだろう。
日常のなかでも、本当に思い通りにならないことはある、多い。
ひとつ山を越えたと思ったら、すぐ次の山。

仕事で困っていることがあった場合、
身近に相談する人がいたり、
アドバイスしてくれる人がいれば、なんとか乗り切ることができる。

仕事以外でも、家族や親しい人と助け合っていけたら、何とかなる。
でも、それがしんどいときもある。

でも、周囲に応援してくれる人がいたら、ヒントも得られて
違う行動を選ぶことができる。


でも、やるのは自分。生きるのは自分。

それぞれ、自分の命を生きるしかなく、交代することが
できないのが、人生の厳しいところだ。

自分の人生、自分でしか進めない。
自分の人生には、これまでのすべての経験が詰まっていて、
長年の間に重ねられたその時々の選択や判断から、
現在の自分が成り立っている。
だから、自分以外の存在が自分に代わることはできない。

長年生きていれば、逃げ出したくなるときもあるけれど、
時は止まっていない。
必ず前に進んでいる。
だから、今は雨風をうまくしのいで、前に進む方法を
考えればいい。

嵐も過ぎ去る。
季節は移る。

出口のないトンネルはない。と教えてくれた人がいたことを思い出す。

だから、少し時間が経つのを待ちながら
今できることを、精いっぱい。
そんななかで、少しでも楽しいことをみつけて
そんな風に生きていけたらと思う。
くだらないことでもいいから、毎日笑いたい。

誰も代われない人生。
だからこそ、生きがいがある。やりがいもある。
あの時は苦労したね~。よくがんばったね。
と自分を褒められる日が必ずくる。
自分で生きるしかない自分の人生。
等しくみな、その宿命を背負っている。

どうしたら、少しでも笑顔になれるか。
最後は自分次第。
わが人生、代行はなし。

※本日4月10日早朝、サーバ不調により公開が遅れましたこと
お詫び申し上げます。

カテゴリー: Essay (Word) | 人生に代行なし。 はコメントを受け付けていません

五感で本質を問う姿勢。

「眼聴耳視」
最近出会った、心に残る言葉がこれだ。

河合寛次郎氏の名言のひとつとして知られているが、先日京都で
この額をみつけて、足が止まった。
どうやら、もともとは禅の言葉からきているようであるが、
河井寛次郎は陶芸だけでなく、言葉の紡ぎ手としてもなかなか
奥深い表現者であったと思う。

さて、この言葉。
目で聴き、耳で視る。
物事の本質を知るためのコツともいえる。
目で聴くも、耳で視るも、頭と心の働かせ方が大切になる。
目に映る、耳に入る表面的な情報だけでなく、その裏をその奥を
しっかり見聞きして、本質をとらえるようにしよう。
ということだと解釈できる。
さて今目、目に映る、耳に入ってくる情報はあまたある。
情報の洪水時代だ。ここにおぼれることなく、
しっかり五感をフル回転させ、
全身全霊でひとつひとつの事象に向かい合おう。
ちゃんと選び取って、それを生かす。
つまり、
しっかり生きることだよ。と言われている気がする。



カテゴリー: Essay (Word) | 五感で本質を問う姿勢。 はコメントを受け付けていません

生には勝てん。

2月に行った朗読劇の主催者(作家)と開催後、
やっと会えることになった。
コロナまん防のさなか、しかも雪降った翌日・・・。
いろんな悪条件での挑戦であった。
あれからもう2か月が経とうとしている。

こんな状況では劇場に来る人はあまり期待できないし、
今なら配信もできるから、
来れない人には自宅で観賞いただこう・・・。
と、今回はリアルと後日配信の二本柱で上演。
配信用は2日目の後半の部をプロが撮影し、編集。
そして、上演後に配信開始となった。
おかげさまで、多くの方にご予約いただいた。

劇場に足を運んでいただいたお客様からは、
その場でアンケートにいろんな感想をいただいた。
わざわざコロナ禍でも会場に足を運んでくださる
演劇ファンからの熱心なお言葉をいただいた。
感動した、朗読劇って想像するから楽しいね。
朗読と音楽がよくあっていて、良かった・・
などなど生の声をたくさんいただいた。

一方、配信の方は、こちらは恐る恐るであった。
どんな風に編集、再現してくれるのかな?
画面上で朗読劇って伝わるのかな・・・。
と、私自身思ってはいたが、でもやる以上はと
一生懸命告知し、応援もいただき、
当日来られない方は。それぞれのタイミングで
観賞いただくことになった。
感想をくれた人は3~4名。
すぐ感想をくれた人、ついでのときに感想を
言ってくれる人・・・。
久しぶりに演奏が聴けてよかった。
画面越しにマーサさんに会えてよかった。
新感覚ですね。千秋楽を観たかった。
朗読劇は初めてだったけれど、暗くてよく見えなかった。
ピアノの音は聞こえたけれど、役者の表情がわからなかった、
やっぱり、生で聴きたい。早くディナーショーやって!
などなど・・・。
正直、普段のライブなどより反応が少なかったのが正直なところ。

そんな感想やアンケートの声も含め、
そして自分たち自身の手ごたえとして、
「やっぱり、生じゃないと」
というのが、今回の総括。
生じゃないと、作り手、演じ手のすべてが伝わりづらい。
もちろんコロナのおかげで得た、配信という伝達方法は便利であるし
一定のことは伝えられるが、
やっぱり生には勝てないのだ。
とくに初めて観る方には尚更のこと。

もっとも4回も観て楽しんだという人もいたため、楽しみ方は
人それぞれであるが、
やっぱり生で観賞いただき、その反応をその場で得る。という
ことが本来の姿だろう。

わざわざチケットを買い、配信でごらんいただいた方に
あらためて感謝の意を伝えながら、そして次こそはライブで、生で
体感いただければと心新たにする。

「今度さあ、京都でやろうか」
「やろうやろう。絶対やる!」
京都出身の作家と、京都が第二のふるさとの私にとって
次の目標がまた加わった。

生には勝てん。
どんな場面でもそうだ。
リアル!
これに尽きる。何事も!

感動を伝えるには、心や表情の伝達が必須だ。
そして、同じ空間にいることでの共感、共鳴。

改めて、応援いただけるみなさんに感謝の意を伝え、
次はぜひ生で感動を伝えたい!と心に誓う。
ふりかえりは、本当に大切だ。と実感。
やりっぱなしじゃ、成長しない。



カテゴリー: Essay (Word) | 生には勝てん。 はコメントを受け付けていません

来年、またここで。

 桜は咲き始め、満開、散り際と短い時間で、その変化を楽しませて
くれる大変ドラマチックな存在だ。
そして、私の場合、今年ほど、このさくらに思いを馳せるときはなかった
かもしれない。

それはやはり、両親の旅立ちと関係がある。
昨年のさくらの花が咲いたころ、母が旅立ち、父の名前が記された
この提灯が寂しそうに母を送っていたように見えた。

そして、今年は、ふたりとも旅立ってしまい、さくらの花に二人を
重ねることになった。
今年も飾っていただいたこの提灯は、まさに父と母の存在の証し
のひとつにも映った。

美しい桜吹雪は川面にも降って、水面一面が真っ白になった。
最後の最後まで咲き続ける桜の花と、風にゆらぐ父の提灯。
何度も何度も父の提灯と桜の花を撮影する。
そして、
電車が来るまで、このちょうちんの前に立ち、
父に話しかける。

電車が来た。もう行かねば。今日が見納めとなる。

「お父さん、また来年。ここで会おうね」
なんだか、父の提灯がにこにこ笑っているようにも、また
ちょっと別れを悲しんでいるようにも見えた。

二人がいなくなった春。季節が変わるごとにそのことを実感
してしまうのだろう。

人生はさくらのごとくドラマチックだ。
だから、美しい。

「来年、またここで、一緒に桜を見ようね。」
変な人のごとく、ちょうちんに何度も手を振り、
あわてて電車に乗り込んだ。




カテゴリー: Essay (Word) | 来年、またここで。 はコメントを受け付けていません

「あと100回会おう!」

何十年という歳月、いつも見守ってくださる方たちがいる。
悲しいかな、その数は年々減っていく。

高齢になり、コロナのせいでだんだん会えなくなって、、、
再会の約束を果たせぬまま、御礼も言えず、挨拶もできないまま、
それでお別れ・・・。
と、そんなこともここ1~2年、急に増えている。

自分の場合は、いわれなき戦争で、ある日突然帰らぬ人になる、といった
あってはならない不幸のお別れではないけれど、
もう会えない、話せない、一緒にお茶も乾杯もできない・・・というのは、
心残りな最期である・・。

だから、会いたい人、会わねばならぬと思う東西南北の人たちとは、
ちょっと無理をしてでも、時間をやりくりして、会える今のうちに
会っておきたいと最近強く思う。

そんな気持ちのなか、長年応援してくださる方と久しぶりに再会できた。
コロナのせいで、ご無沙汰感が増す。

初めて訪ねる喫茶店にたどりつく前に、電話が鳴る。
「順調?大丈夫?わかる?」
「大丈夫です。もうすぐ到着します」
こんな風に心配してもらうのも、なんだか微笑ましい感じ。
待ち合わせというのは、やっぱりいいものだ。
ちょっとだけ非日常、プチイベントになっているのもうれしい。

そしてご対面。この一年の間に、我が身に起きたことを報告のごとく、
次々と話しはじめるといつものごとく、
あいづちを打ちながら、とくに笑い、
ときに突っ込みをいただきながら・・
止まらぬ会話に、時を忘れる。
元気に再会できたことが、うれしいのだ。話題は尽きない。

カフェのお店に人に、「すみません、閉店です」、と言われ、
2時間も時計も見ずに話していたことに気づく。
「長いこと、すみません。」
と、こっちがあやまって、急いで会計、急にあわただしく店を出る。

別れ際に、
「あと、100回会いますから!だから元気でいてくださいね」
「次も、この店で。ここ、良かったですね。」
そう言いながら、手を差し伸べ、約束。

一年に一回か二回、会えるかどうかのペースであるため、
あと50年以上は生きないと100回まではとうていたどり着けないけれど、
「あと100回」
この言葉が、元気に生きる合言葉になればと思った。
気持は、永遠に会えると信じつつ・・・。

人生のなかで長く交わり、関わる人との別れはこれからも続くだろう。
だからこそ、その関係を大切に育みたい。

大切な人にはずっと元気でいてほしい。

改めて心からそう願う。平和な日本、今日も大切に生きなければ。

カテゴリー: Essay (Word) | 「あと100回会おう!」 はコメントを受け付けていません

知る義務・権利と知らない幸せ

何が真実で何が虚偽であるか。
見方や立場が変われば、
こんなにも両極端に、大きく事実の見え方が変わってしまうとは。
今回の戦争のもっとも恐ろしいところは、
「情報の与える影響」だ。
人間は得た情報に感化される。
ロシアでは多くの人々が、プロパガンダに洗脳されているという。
この時代において・・だ。

何をどのようにインプットするか、しているか。
しなければならないか。によって行動が変わる。

今、毎日のように無残すぎる戦場の様子がさまざまなメディアから
発信されている。
これだけ長期戦になり、次々の想像を超えた無残な情報
ふれることはしんどい。

早く終結、終息してほしい。と、ただ、この1点のみ祈っているが、
この惨い状況は、もうあまり見たくない、知りたくない。

知らない方が幸せだ。
とも思うときがある。
知ることでできることもあるが、知ることが苦しすぎてどうにもならない
こともある。

ふと、ロシアのジャーナリストで、20年前チェチェンの紛争の取材から
殺害をされてしまったアンナ・ポリトコフスカヤさんの言葉が今、蘇る。
(先日受けた講義で衝撃的だった内容だ)
戦場のなかで ある子どもが普通に「耳が聞こえないことがうらやましい」
とつぶやいたそう。そう、聴こえなければ怖くない、悲しくない。

それと同じように、
見なければ、見えなければ、知らなければ悲しくない、怖くない。
そんなことを、ここのところ、想ったりする。
今、現実を見ようとする自分と、気が付けば電源をOFFにする自分がいる。
電源をOFFにすれば、この恐怖から逃れられるというのも、
また無責任だろうか。

情報との向き合い方。本当に大きな課題である。

とにかく、早く幸せになれる、安心できる情報に出会えるように。
ウクライナから平和の報せが入るように、心から祈るのみ。
1日も早く、一刻も早く・・・。

カテゴリー: Essay (Word) | 知る義務・権利と知らない幸せ はコメントを受け付けていません

毎日をキックオフ!

春はスタートの季節。
何かを新たに始めるには、気候的にも、暦的にも、さまざまな意味で最適。
新年に今年こそは・・と何か新たな目標を立てたり、抱負を考えたり
ということも多いが、そろそろ気持ちも緩んで、マンネリ化した頃・・。
季節や年度のこの変わり目に、新たな気持ちで何かをスタートするのは
理にかなっている。日本で「新年度」というのは、行動が変わる節目である。

そこで、「キックオフ」。
日本語で言うと、プロジェクトや試合を始めるという意味で使われるが、
集中して、ボールを蹴りだすイメージだ。
とにかく元気にスタートする。周りから動くのではなく、自発的に動き出す。

この言葉を指針に、会社の新年度を、まさにキックオフした企業もある。
企業全体で1年をキックオフするにあたり、まず個々のキックオフを大切にする。具体的に動き始めるには、ひとり一人の意識と行動の変革が不可欠だ。
何をキックオフするかは、それぞれが考え、決める。
このことをがんばってみよう、このことを乗り越えてみよう・・。
どんなことでもよい。小さなことでもいい。
ある人は、どんな苦しいときでも笑顔で毎日を過ごそうと決めたとのこと。
自分がまだできていないことを切り開くために、
変化するためのきっかけが、キックオフだ。
キックオフした先には変化が、そしてさらなるチャレンジの道が開けていく。

でも1年は長い。1年という長い時間を息切れすることなく、頑張り続けるために
毎日をキックオフ!の気持ちでスタートしたい。
自分が決めたことを、今日もやる!今日もなしとげる!
そんな気持ちで取り組んでいくと、日ごとに力が増していきそうだ。

さあ、この1年を、1週間を、そして今日を、キックオフ!
なんだか、元気ちと勇気が湧いてきた!




カテゴリー: Essay (Word) | 毎日をキックオフ! はコメントを受け付けていません

今のおまつり気分。

桜満開。そのなか、春祭りが各地で開催されはじめている。
コロナで我慢してきたこの2年。もういいだろう。やるなら今のうち。
今できる方法で・・・。とそれぞれ工夫、対策されての実施。

たまたま、地元で由緒あるお祭りが開催されていた。
タイコやお囃子といった、祭りを盛り上げる音楽が駅前のステージで
演奏され、集まった人々が「待ってました」といわんばかりに拍手を
おくる。屋台も立ち並び、通行客も楽しそうに各店を覗き込み、
店の人との交流を楽しむ。

みこしパレードもあるようで、主催者や地元のメディアも張り切って
準備を行う。みこしは久しぶりなのだろう。はっぴ姿のお兄さんが
張り切る様子を見て、こちらにもまつり気分が移る。
商店街も久しぶりに活気をおび、なんだか皆がにこにこしている。
人出がある、賑わいというのは、やはりいいことだ。
ああ、春だ、まつりだ。
コロナであっても、みんなできる方法で楽しもうとしている。
間違いなく、今は前に進んでいる。立ち止まっていない。
春はみんなが動き出す季節・・。
そして、まつりを楽しめるほど、日本は平和だ・・・。
いろんな思いを抱き、その様子を見聞きしていた。

ふと、父や母の現役時代の元気な姿が蘇った。
地元のまつりが彼らの一大イベントであり、
毎年張り切っていた二人のことを思い出し、
ああ、もういないんだ・・・。
そう思ったら、賑わいのなか、泣き出したい気持ちになった。
これは、たまらん。
そして、お囃子のそばから離れた。マスクの中で口をぐっと結んだ。

ハレの場であればあるほど、今はまだつらいのかもしれない。
楽しい日々を思い出すから。
ちょっと甘酸っぱい春まつり。
まだまだこの感情は消えないのかもしれないが、
無理しなくていい。
涙は春風が飛ばしてくれる。
ちょっと泣き笑い、ちょっと複雑・・・。
それもよし。
涙は、雨が洗い流してくれる。
祭りは今日も続く。

カテゴリー: Essay (Word) | 今のおまつり気分。 はコメントを受け付けていません

ジモトのさくら愛。

日本のまんなかでは、さくらが満開になった。京都も東京も同じく。
新潟はまだこれからのようだ。
満開というこの限られたひとときは、毎年のことながら、
なんともいえぬ高揚感がある。
いつまで咲いてくれるか、いつ散るか・・・とハラハラドキドキ。
さくらならではの、緊張感があるのだ。
今しかないと思うと余計に大切に思えてくる存在。
それに加えて、自分にとって、さくらは両親の思い出と重なって、
思いが募る。

ふるさとのさくら。地元の人たちで飾り付けをされた提灯で「手作りのおまつり」。今年は先週末にみなさんで清掃をされ、提灯を取り付けられたとのこと。
観光地でなくても、地元の人たちが地元で楽しみ、愛でるために、長年守ってこられた。地元の誇り。この地道な歴史に敬意を表したい。

日本各地には、それぞれのさくらの保存、楽しみ方があるのだろう。
道行く人が必ず、撮影をしている。それぞれが小さな幸せな春を満喫している。
わいがやのない、静かな花見。これもまた良しだ。

実家での用事を済ませて帰り道すがら、桜の提灯をひとつひとつ見ながら
駅に向かう。父の名前の提灯はいくつあるのか・・と。
そんな行動が父との再会の楽しみとなった。
これから毎年同じことをするのだろう。

子どもの頃から乗っている名鉄電車が通る。
てっちゃんではないが、
桜と電車のマッチングにプチ感動。
思えば半世紀以上、私が生まれる前から変わらず
この桜も、電車も存在し続けている。
ああ、春だ。ああ、ふるさとだ。
何気ない景色なのに、桜が咲くだけで、特別な時空になるのだ。

それぞれの地元で、それぞれのさくらをそれぞれ愛でる週末。
それぞれの思いを重ねる特別な時間・・・。

カテゴリー: Essay (Word) | ジモトのさくら愛。 はコメントを受け付けていません