町裏を歩き、見聞、思索する。

東日本大震災の直後に亡くなった作家のNさんは、生前、毎日決まった時間帯に散歩をされていた。それが一日の習慣であり、貴重な思考の時間だとよく聞いていた。
ずっと自宅で、調べものや書き物をする作家という仕事は、なかなか大変な生き方だ。どれだけ書斎で考えていても考えがまとまらないこともあり、自分で自分を律することができないと、また強い使命感がないと書き続けることはできない。Nさんは本当に書き続けた、歩き続けた。亡くなって九年経っても忘れることができない、尊敬すべき生き方をされていた。

そんな私は作家のような創造的な仕事とはいえないかもしれないが、無形のものを表現する、それを相手に考えるという点では共通している。
思索の時間は大変貴重だ。
もちろん室内でも考えているが、一歩外に出て、スマホやパソコンを離れて
五感で世界を感じることは大変有意義なリサーチ、取材時間となる。

この緊急事態宣言発出後、出張ができなくなり、移動距離が少なくなった。
東京や京都に行けば、かなり歩くのであるが、地元ではかなり意識しないと歩数を稼げない。健康にもよろしくない。
ということで、最近はコロナ前と同じように1万歩をめざして、日々ぐるぐる。
歩きながら、町を見る。店を見る。いろんな変化を見る。もちろん人がいるところは極力避ける。裏道ばかり、小さい路地を探し続け、ひとり歩く。
静かな町を歩いていると、いいフレーズやメロディーが出てくる。

修行のように歩き、考える。一万歩を越える頃、いい疲労感と爽快感が生まれることは間違いない。
生活がシンプルになりつつあるこの頃、小さな気づきや発見を楽しみたい。

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ぬりえ・あめ・かっぱえびせん

脳梗塞に倒れた父は数か月の入院先で治療と、リハビリののち介護サービス付きの老人施設に入所した。
以前のように、自力で歩行しづらくなってしまった点が帰宅できない理由のひとつ。申し訳ないと思いつつ、施設での生活を始めてもらった。
家に帰りたいと泣くのはその前の入院時から変わらず、とはいえその父の泣き顔に慣れることはなく、気の毒であり、そして情けなくもあり、申し訳なく・・で複雑な日々・・・。
そんななか、施設での生活も2か月経過。周囲の皆さまのお世話になり、徐々にそこでの生活も慣れてきたが、コロナ感染のため、週に三度そこから通う楽しみにしていたデイサービスも休止で、施設内で24時間過ごすしかない。
面会も極力避けなければならず、入居者にとってもストレスがたまりやすい。
それはとても理解できる。
そんな父がリクエストしてくるのは、ぬりえ、あめ、かっぱえびせん。
ぬりえは名画や風景など。自宅にいた頃は見向きもしなかったが、もともと職人であった父にはまあ相性が良いようで、飽きないよういろんな素材を用意し、届ける。色鉛筆からマーカーも・・。そして、あめとかっぱえびせんは毎日のおやつ。施設で出されるおやつだけでは、時間を持て余すらしい。ということで、飴は毎日3個と決め、食べ過ぎないように1週間分を袋に入れて渡すようにする。そして、かっぱえびせんは小さい袋のものを用意して、届ける。
かっぱえびせんが、80歳すぎて好きというのは面白い。父にとってのソウルフードだったのかもしれない。
数年前には、まさかこんな日がくるとは・・・。でもこれが現実だ。
なんともいえないながら、差し入れをもって週に一度顔を出す。
まともな会話ができているだけ、幸せかな。
すっかり立場が逆になってしまったような親子の関係ではあるが、父が求めるものを、ことをできるだけ・・・。いろんな申し訳ない気持ちが交雑する日々。
せめてコロナが早く終息してほしい。デイサービス再開を待つ父のためにも・・・。


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コロナ見舞いを送る。

新潟への出張がまる2か月休止。
昨年度という括りで2月後半で行政関連の業務が完了し、新年度・・・。その間にコロナ感染が拡大し、まだ新年度の業務にとりかかれないでいる・・。
十数年も新潟に通うと、2か月間があくと、しかも今回のコロナのことを思うと、しかも国の頼りない支援の情報に接すると、新潟の企業さんたちは、事業者のみなさんは、果たしてどうされているのだろうか?と日に日に心配になって顔が次々浮かんでくる。
そこで、連休前にと思って、新潟のみなさんに一斉にお見舞いメールを送る。
しっかり伝えたいので、メールでBccで・・。一人一人に書きたいが、そこまで時間がかけられない。
気が付けば100人以上の方宛てになっていた。それ以上は一度に送れず、改めてまた送ることにする。

タイトルは
新潟の皆さま コロナに負けずがんばりましょう!

本文は
お元気ですか?から始まる・・・。最後はピンチはチャンス!元気に乗り切って笑顔で再会しましょう・・・といった内容のもの。

すると驚いたことに、次々と返信が来て、皆さん、近況報告を文章や写真付きやいろいろ送り返してこられる。短文の返事がないのが特徴だ。
中には、広報の件で、早速相談もあり・・・。聞いてほしい!こんな状況です・・。こんなことで困ってます・・などなど。
製造業が多いため、多くの方が現場での影響を受けておられるようであるが中には、このコロナ関連での仕事が増えている方もおられることもわかった。
たとえば、あるハンコヤさんではお店の幟とか フェイスガードなど・・・はサービス業からのオーダーが多いそうで・・・。開店休業の方もおられたが、皆さん、偉いのは本当に前向きだ。この時間を活かして新たなことを模索しようとか、整理をしようとか、しっかり考えるとか、終活をするとか・・・とにかく
みなさんポジティブ主義!である。

いずれもこのお見舞いメールをとても喜んでくださった。
こんなときだから、うれしい!とのこと。

お正月前に年賀状を出すように、連休前に、エールを送っておきたい。

コロナ二マケルナ!をみんなで実行!終息したら、新潟へ行こうっ!

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がまんウィーク。なんとか皆で乗り越えよう!

ステイホーム週間とか、なんでも英語にしたがる風潮があるが、今回のコロナに関しての言葉は、ファッションでもなく、生命の危機に、社会の存続にかかわることなので、誰でもわかる、伝わる日本語で表現すべきと思っている。
なんで、すぐかっこつけるのか。意味不明。
だから、それに対して、ではないが、このGWは「みんなががまんする週間」と勝手に名付けることにする。行楽に行きたい気持ちをおさえて、家族でわいわい外食したい気持ちおさえて、じっと普段通り家で静かに過ごそう。自分ぐらいはと思わずに、やむなく休んでいるお店、企業、学校のために早く復活できるように、みんなでがまんをする1週間にしたい。
それをして、早く徐々に平常に戻れたらいい。だらだらこのままだと、本当に終わらない。
しかし、この方針も説得力もない対策についてはどうなのか・・と思いだしたらキリがないが、がまん。そしてささやかな協力、助け合いも大切だ。

名古屋駅が最寄の買い出し先になるため、たまたま新幹線の改札口を通ったら、なんとも夜中か早朝みたいな静かさだ。日曜なら旅行者や単身赴任者の移動で大賑わいのこの改札口周辺・・・。
3か月前。こんな光景、誰が想像できただろう。
そこで働く皆さんのことを思うと、また新幹線のホームから聞こえるいつもどおりの東京行きや新大阪行きのアナウンスが大きく響くのを聞くと、なんとも涙が出そうになる。新幹線は空っぽでも走っている・・・。
リニアの工事とか書いてある駅前の工事現場はどうなっていくのだろう・・・。
元通りになるかどうかわからないけれども、それでもできる限り平常に活動できるように、今はみんなでがまん。敵は見えないから、本当にやっかいだけれども・・。

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演説に学ぶ、真のリーダーシップ。

もっとも尊敬する世界のリーダーは、ドイツのメルケル首相。そして台湾の蔡総督。ということは何度かこのブログでも書いてきた。このお二人が女性だからではなく、たまたま女性であったというだけ。もちろんそれも嬉しいが、何と言っても人として、リーダーとして聡明かつ理性的、そして愛と慈悲の心、思いやりがある。

たまたま、半年ほどご無沙汰の国際的な活動を行う知人よりmessageが届く。
3月18日にメルケル首相がドイツ国民向けにテレビ演説した、その内容があまりに感動的なので、ということで共有のため翻訳文を送付してくれた。
その方のお知り合いのドイツ人の方が、訳された貴重な資料だ。。
その関係者から送られたときは、ま、ドイツのことだから日本には参考にならないと思ったらしいが、今となっては、これは日本でも参考にすべき内容ではないかと急きょ、こちらにも送付してくださった次第。


この演説には目頭があつくなるものがある。またメルケルさんが思慮深く話す姿が浮かんでくる。
一国のリーダーとして、国民を落ち着かせ、納得させ、そして一致団結させるに有効な、伝わるmessageである。
なぜ、今、自粛が必要なのか。を丁寧に説明している。
さすが理系の首相だけあって、という前置きがあてはまるかどうかわからないが、理路整然としているし、誠実さが伝わってくるのだ。
こういうスピーチならば、国民は理解し、行動し、またこのリーダーを尊敬するだろう。


日本は他国に学ぶところが多い。
今回のコロナに向かう道筋だけではなく、このスピーチ、プレゼンテーション・・・。国、行政や企業のリーダーたちは参考にすべきであると思ったし、庶民の私としては、このように理性的、聡明、そして思いやりをもって行動する人間になれるよう努力しようと思った次第。

有事こそ正しい道を示し、きちんと導く。リーダーとは、まさに導く人。ということで、送ってくださった知人の許可も得たため、敬意を表して、
以下にメルケル首相の演説訳文を添付させていただく。ドイツ語原文は、政府のサイトでももちろん公開されている。

日本語訳PDFファイル

ドイツ語全文

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すべての経験を活かし、次の生き方を創る。

なんだか、最近、前に増して、やる気に満ちている。
おかげさまで元気でいる。心身ともに。
なんだか、おかしいなとずっと思ってきたことや、いろんな汚れが
コロナ感染、騒動でクリアになっていくような気がしている。
経済活動を休むことで、さまざまな常識がストップすることで、
本来のものが見えてくるような気がしている。
何かあらたな時代への幕開けを予期する。
だから、今できること、今ひらめくことはどんどんしようと思う。
ここでは既存のルールや凝り固まった常識はもう通用しないから、
考えたもの、動いたもの勝ちとなる。

今改めて、音楽ではじまったわが人生。途中でそれを捨て、哲学の世界に少しだけ顔を出し、その後、印刷というグーテンベルク以来の素晴らしきコミュニケーションの世界でマーケティングや出版、広報などにたずさわり、そしてコミュニケーションクリエイターとして生きた・・・この道は、まさにこれからの時代に活かせると確信する。
また、専業でなく兼業でやってきてよかったとも思う。
多少、中途半端であっても、あれもこれものコミュニケーションクリエイター
業は生きる道がある、考えようによってなんでもできる。つぶしがきく。

今は演奏活動はできないが、そのかわりコミュニケーションの仕事に注力できる。いろんな企業や組織に気づきや提案を伝えることができる。
コミュニケーションを通じて、生き延びる術について伝えることが毎日湧いてくる。

これまで生きてきた自分の歴史、行ってきたこと。すべての経験を活かし、ポストコロナの道を考えよう。
そう思うと、なんだかわくわくもしてくる。
目先の不安ではなく、新たな時代にどう生きるか。ここを考えることにパワーを費やしたい。

と思うため、大変元気である。おかげさま。

ちなみに、こんな時期、80歳の老母は、毎日草取りをせっせと行っている。
なんだか、彼女も力強いと思う。

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ポジティブ主義でいこう。

最近、哲学者や思想家たちが、これからの時代をどう読み解き、どんな世の中像を示すのかに関心がある。
書店でもそういった類の本がよく出ているようだ。
不安だから読みたい、知りたい。
先が見えない世の中ほど、人々の知識欲、探求心が高まるのだろうか。

ジャックアタリという思想家は現代フランスを代表する学者だ。
まだ著作をちゃんと読んでおらず、インタビューなどを聴いている限りであるが、納得、共感できる発言が多い。
その中で、ポジティビスム。これからはポジティブ主義で行こう。との言葉が大変心に響いた。
このポジティブは楽観とは違う。
先に対して、うまくいくんじゃない?というのは楽観で、これではもはや生きていけない時代。
こうなったら、こうなる。だから自分はこうする!という明確なターゲットを決めて積極的に行動すること。明確に意思がないと、そして行動しないとこれからは生きていけない。
そして、これまでの価値を組みなおさなければならないとも。
これから本当に求められる商品は…いのちに関わるものが優先となる。
今回のコロナはそのことをすでに実証している。
医療、病院、食品・・・。もちろん生きるために環境も必要だ。
どうやら、贅沢な消費はもう求められなくなってしまうかも・・・。
時代を確かに感知しながら、ポジティブ主義でいこう。
そうすれば、必ずコロナに勝つ。

ところで、今の日本に時代を示せる思想家がいるのかな?
経済ファーストの国に、思想や文化がないのは・・・残念。でも学べるところから学べばいい。

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インバウンドがもたらしたもの。

この6月から新幹線で大きなキャリーバッグの置き場所が予約制になると昨年末からJRが告知していた。これはオリンピックに向けて、海外からの渡航客らの移動を想定しての新サービスだったのだろう。
でも、今はほとんど人が乗っていない新幹線。駅や車内での案内ポスターやアナウンスが空しい感じだ。もうそのサービスやめればいいのに。
もう新幹線が混みあうことはないかもしれないのに・・。
この数年。インバウンドという言葉が多用され、様々な政策が功を奏して外国人観光客がどんどん来日、その数字の伸びが発表された。過去最高、過去最高。何を競っているんだろう。どこまでどうしたいんだろう。ずっと抱き東京暮らしも考えるようになった。
この数字の上昇とともに、住みづらい東京、行きづらい京都になっていたのだ。
大きなカバンをガラガラ引っ張って、歩く。バスに乗る。ほんとうに邪魔だ!
と思うこともあった。
でも、この彼らの大きなバッグ。ここに日本のモノがいっぱい消費され、積み込まれて帰国する。このバッグの大きさこそが、日本の消費を支えていたこの数年。
日本は経済成長を掲げるあまり、それを達成するにはインバウンドしかなくて、
この方法をとったが、これは実はバブル過ぎるバブルで、オリンピックにそのまま突入・・・。と危険な思いを抱きながらみつめていたが、このコロナショックがすべてを消し去った。
インバウンドに頼っていた日本は、今、取り返しのつかない状況まで来ている。

民泊はどうなった?高級ホテル建設ラッシュはどうなった?
もちろんオリンピックは・・・・。

インバウンドに依存していなかったら、この痛手ももう少し少なかったのかも
しれない。
コロナはインバウンドの幻想を瞬間に消した。
インバウンドのおかげで成り立っていた日本の経済、消費。
いつか終わらなければならなかったが、こんな風にして終わるとは。

今、改めてインバウンドがもたらしたことについて、しっかり考えなければならない。そして、ここで一度リセットされることを、ー決して悲観してはいけない。全ての経験を生かす。それが生きるということだから。と今、強く思う。

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ステージ稼業の危機。

音楽仲間とのやりとり。
このコロナのおかげで、「共有の場」を活動拠点、そして生業とする
アーチストたちは今、存続の危機にいる。
演奏する、話をする、芸を見せるなど、人に生で感動を与えることが、
仕事である人たちは完全に活動停止。
先のめども立っていない。
レッスン、教室といった活動も同様だ。
テレビ、ネット上で活動して、お金を稼ぐことができるわずかな人を除いて、
多くのアーチストたちは本当に困っている。

お客様の目の前で、演奏することができない。
画面を通じて、ネットを介してしか伝えることができない。

なんという悲劇だろうか。
リアルな演奏ができないからと、
自宅やスタジオで演奏するアーチストたちの姿をネットで見ても、
何も感動はしない。
「あ、なんかやってるな」という感じ。
その中で自分が見た唯一例外は、イタリアの世界遺産の遺跡か
コロッセオか巨大な空間で、大声で歌っている有名歌手の映像。
これはさすがにすごい、とは思った。コロナ終息への祈りの歌、
叫びにも聞こえたからだ。また、コロナに対抗する人間の力を感じたからだ。
でも、これも本当はネットで見たいものではない。
カンツォーネは呼吸を合わせ、波動とともに聴き、感動するものだ。

専業の音楽家は本当にキツイと思う。演劇をしている役者も同じだ。
兼業である自分は、彼らに対して申し訳ない気持ちもある。
生で表現することを生業をする人にとって、コロナは天敵だ。

これから、生で演奏する機会が得られるだろうか?
そんな心配がある・・。

今、私は大きな声で歌いたい。お客さまに聴いていただきたい。
この3か月の封鎖期間を経て、ちょっとたまらない気持ちでいる。
思い切り歌い、弾き、伝えたい。
歌ったり、楽器を演奏するとは、口を使う。そのことが罪になるとは、
泣けてくる・・・。

これまで当たり前であった動作が、禁じられるとは、、。表現の不自由がこんなところから生まれるとは、、、。
そんな風に思っているアーチストたちは大勢いるだろう。
ネット社会があるからいい。ではない。
生で伝えることをしたい。それが人間にとって必要だと思うから。

会議もWEBでできる。これはこれでいい。
でも、人間と人間の間に、ネットや画面が常に介在しているのは何か
違和感がある。マスクをして町を歩いている光景に違和感を感じ続けているのと同じだ。

私はこうである。と隠さずきちんと示したい。

と、そんなことができづらくなる世のなかになるのか・・と思うと
思い錘がのしかかってくるようでもある。コロナに息の根を止められないようにせねば。

絶対負けない。
人がいない道を歩き、マスクをとって発声練習をはじめる。
歌い続けるのだ、その機会が早く戻って来る日を待ちわびて。絶対に負けない。コロナに負けない。
生を届けよう。ライブな表現、伝達こそ意味がある。人間は生きているのだから。
もちろん、アーチストだけでなく、どんな職業の人達も今はかつてない苦難の中にいる。負けないで、今できることを一生懸命やる!やろう。
泣いてる場合じゃない。

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今こそ、花で心を満たす。

前にも書いたが、今、花の市場が大変だ。
食品は生活必需品ということで、お店も営業、買い物ができるが、花屋がある商業施設などは休業するところが多く、売る機会が減少、お花が売れない。
フランスの花農家では、毎日咲く美しい花たちの行き場所がなく、施設などに寄付をしているそうだ。喜んでもらえてうれしい・・と農家さんのインタビューを聞くとなんとも複雑な気持ちになるが、これは外国の話題ではなく、全国有数の花生産地である愛知県でも、同じ状況のようだ。春といえば、美しい花が咲き誇る季節なのに、売り先がなく、値段が大下落しているとのこと。
食べていかねば生きていけないが、花を見なくても??なのだろうか?いや、それ以上にお店が閉まっているから、売りたくても売れず、買いたくても買えない・・・。これは本当に気の毒なこと。

ここ最近、気になっていた近所の花屋さんでセール品のバラのブーケを買い、仕事場においてみる。本当に安価なものであるが、不思議なもので、花が室内にあることで、心が潤う。シャンソンが聞こえてきそうな、パリに行ったような・・・楽しいときのこと、ライブでバラの花束をいただいたこと・・などをあれこれ思い出し、コロナで沈むがちな気持ちは晴れやかになる。・・・と、そんな気持ちになれるのだ。
できれば、食品を買うように、近くに花屋さんがあったら、1輪でもいいので、
ぜひ花を買って、飾ってみてほしい。
テレワークもお花があると、仕事がはかどるかもしれない。
売り場で誰かを待っているお花を迎えにいってあげてほしい。
花は見られるために、人を元気にするために生まれた。存在するのだと思う。
だから、今こそ、愛でてほしい。マスクをしないでコミュニケーションできる相手だ。・・・と、そんな気持ちでいる。


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