死ぬときは、前のめりで?

いろんな友人、仲間に恵まれ、幸せ者だと思う。近況を聞き、ときには驚き、笑い、困っているときは親身に聞いてくれたり・・・。各地へ出かけるとそこの土地で待ってくれている人がいて。。。順番にというわけでもないが、気になっている方に連絡をとり、カフェで待ち合わせたり、蕎麦を食べにいったり・・。とにかくできる限り多くの人に遭わねば・・と思う。とくに京都に行くとそんな感じになって、次々と人に会う1日はあっという間に1日が過ぎる。
そのなかのひとり。会社員時代はクライアント企業で働く方だった。定年退職されたあともなぜか年に1~2度お会いしている。その人は世間のことを評論家のように見ているのが面白く、ときに正論、でもちょっと「口だけおじさん」のようなところもあり、そのゆるさも私にはうれしい。気が付けば、いつもいい「聞き役」でいてくれる。この人のことは誰が聞いているのだろうと思うほど。
その昔、仕事でお世話になっていた。今はなぜか友達のようになんでも話せる。いろいろお知恵もいただく。会うと刺激を与えてくれるからうれしいと、いつもアツかろうが、寒かろうが人混みの京都駅まで来てくださる。気が付けば20年以上の知り合いだ。
お会いしたその日お礼メールをし、その返信が届く。いつものごとく、ダジャレ連発、随所に笑いのエッセンスとエスプリ?をきかせた文面の最後に、「これからも挑戦してね。体調にはくれぐれも気を付けて。~死ぬときは前のめりになって!~と坂本竜馬は言ったとか言わなかったとか」とある。ちょっと粋な終わり方だ。
「死ぬときに前のめりか。」いいな。死ぬまでイケイケ!ということだろう。
いつ死んでもいいように、覚悟して積極的に、いつも前のめりで行けということでもあるのだろう。
とにかく生きようが、そうでなかろうが、今はいつもどおり、前のめりで行くしかない。ときに名言を与え、応援してくれるこの知人の存在が悩み日々には、ありがたい限りだ。京都・・・世界一の観光地としてはちょっとイメージダウンなほど、人混みで疲れる京都ではあるが、そんななかで昔からの知人を探せることがうれしい、猛暑のひととき。

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ほとんどが「なんだ、それぐらい」

毎日、いろいろ悩むことも多い。生きていると朝、目覚めてそのときには予想してもいなかったことが起きるということも日常茶判事。想定していたことばかりの毎日であれば、なんと楽なこと。でも毎日そうだったら、きっと面白くないのだろう。
思いもよらないアクシデントが起きたり、トラブルに巻き込まれることで、人は知恵を絞りなんとかその苦しみから抜け出そうとする。その途中は、なかなか苦しいこともある。その苦しいときに、誰かに聞いてもらえるかどうかはとても重要だ。
相談相手がいる、いないで、進むべき道も変わる。
私の場合も、いろいろ毎日起きる。未経験のゾーンの話も多く、おそらく親のサポートなど、これまで以上にいろいろ出てきそうだ。ああ、人生とは・・とつい思ってしまう。
ああ、どうしょう。どうしよう。悩みながら、自分なりに対策を考える。そして人に聞いてもらいながらその対策を整理しながら、行動に向かう。自分にとってはあまりに重いこと=未経験ゾーンのことについて、「もう、どうしようかな~~」と相方に言うと
「それぐらいのことで何言ってんの」の一言がかえってくる。そうか、その人にしてみたら、それぐらいのことなんだ。自分にとって生きるか死ぬかぐらいの重大なことと思うことほど、いろんな人に聞いてもらったりするといい。意外と気持ちが軽くなって、世間の皆様はもっといろいろあるんだから、これぐらい乗り越えられるというポジティブな気持ちになっていく。
そう、だいたいがこれぐらいのことなのだ。深刻なときとは、もうこんな悩める状態ではない・・というときだ。と、思って、少々の苦労は越えられる。
そうだ。戦争時代のことを思えば、すべて「これぐらいのこと」でしかないのだ。
悩めるなんて、贅沢なのだ。

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謝ることは難しい?

何年か前、あるマスコミ関係の人と話していて、自身が取材した報道内容についてその取材先からクレームが来て対応に追われた・・という話を聞き、何度も取材先の関係者に呼び出されて大変そうだった。あまりに大変そうなので、「どんな言い分にせよ、相手からクレームが来たならば、まず謝ればいいじゃない!」と言ったが「とんでもない。こっちの主張は間違っていないのに、なぜ謝るのか?」と反論されたことが忘れられない。いや、そうじゃなくて、まずは不快な思いをさせたとか、であれば理由はどうであれ、まずはそのこと自体に詫びをしてから、その内容について議論をしてお互いの考えを理解するようにすればいいのではと思ったのだが、その意見はそのマスコミ関係者には通じず、残念に思ったことがあった。
マスコミにとって謝るというのは、自分の非を認めることで、それは職業的に汚点なのか、致命傷なにか知らないが・・・・なかなか難しい世界であるとは思う。
一方、国になると、もっと謝らなくなる。それも実は不思議に思ってはいる。
頭を下げることで、うまくいくならば、それも有効だと思っているのだが、私のような小さな存在と、国家という社会的単位とは違うのだろうか?
誠意をもった対応は、逆に好感につながるのではと思うのは、よろしくないのだろうか。
原爆関連の報道を見聞きして、だんだん不思議に思えてならないのは、それを日本に落とした国の人たちが、謝らないことだ。
もちろん戦争であるから、そのときそれを選択し、実施した側には理由もあったし、それがなければ戦争は終わらなかったかもしれないし、その正当化も立場を変えれば理解できなくはない。
ただ、人として「私たちの国がこんなことを昔して、本当にすまなかったね~。」という
気持ちがないのかなと不思議に思えてならないのだ。
遺憾であるという言葉はよく聞くけれど、この言葉は客観的すぎて、気持ちを本当に表しているとは思いづらい・・。
とにかく、メディアであったり、国であったり背負うものが多いと、だんだん謝れない?謝るときは自分が非を認め、相手に従属する覚悟ができたとき?・・・なんだか、人としてありがとうとか、ごめんなさい。とかもっとあっていいんじゃない?
なんだか被爆地の皆さんの苦難を思うと、心の中から怒りと一緒にそんな思いも込み上げてきてしまう・・。

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「時間」について考える

音楽は時間の芸術だという人がいる。それに対して美術は空間の芸術なのだろう。
私は後者は見るしか芸がないので、今回は、前者について考えてみる。音楽は確かに
時間の流れのなかで、生まれ消えゆく存在。聴いたらすぐ消えてなくなる。記録や録音しない限り、再生は不可能である。まさに瞬間の芸術である。
瞬間瞬間に生まれ、消えていくこの美しき戦慄たちを記録したものが楽譜。さらに楽譜という概念を伴った「西洋音楽」を日本にもたらしたのは、かのザビエルだと知り、なるほどと思う。わが人生でかかわってきた印刷も、音楽もすべてキリスト教そしてその伝え人、ザビエルが存在してこその今日であると思うと、偶然とはいえ、不思議な縁をも感じてしまう。さて、改めて時間について考える。
生きていること自体が時間ドラマ。同じ時間は二度とこない。時間とともに人は変化していく。
来る未来を想像しながら、過去の記憶を糧に生きていく。
そう、人生は記憶と時間の関係のなかで「アイデンティティ」をもつことになる。
しかし、時間が経過すると、人もモノも消えていく。意識して記録されなければ、伝承されなければ、その存在すら消失してしまう。
人々の記憶から消えてしまうということが起きうる。意識しないと消えていく。6日の広島、そして本日9日は長崎に原爆が投下されたという恐ろしい記念日だ・・。これもいつしか、この悲劇を生身に経験した人が少なくなれば、時間とともに人々の記憶から消えていってしまうのか・・。そんなことをふと思った。
時間とは、時に人に成長をもたらす一方、時として終焉をもたらす、消滅を運ぶことがあるのかもしれない。
時間・・・。瞬間であり、自分の意識次第で永遠にすることもできる存在だ。
そして、多く歌い継がれているように、時が経つ、流れるから、人生は素晴らしく、そして悲しく・・。今日の長崎での記念日。これまでの70年という時間を思い、そして、これからの70年を思う日にしたい。多くの犠牲者の皆様に哀悼の意を表して。

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日本が世界に注視される夏

8月6日の広島、そして9日の長崎。70年前のこの夏、原爆がこの2つの町に投下された。近年、続けて2つの町を訪れ、資料館や町中にある原爆被害の実態に少しづつ知るにつれ、その悲惨な現実から目をそらすことができなくなった。あまりにショックな写真や絵を見て
それだけで足がすくみ、顔を覆ってしまう。戦争とは何のため?真の平和とは?日本とアメリカをはじめとした世界との関係とは?などなど強く意識するようになった。そしてこの地を訪れるにつれ、凄まじい悲惨な状況を乗り越え、懸命に復興を遂げてきた現地のみなさんへの尊敬も芽生える一方、今なお残る傷跡に心痛む。本当にこんなことが世の中にあったのか?と信じたくないような現実をみなさん、悲しみや苦しみを乗り越えて頑張って生きてこられた。どんな気持ちで?と思うとまた胸が痛む。

今回の広島での式典の模様は、もちろん世界でも報道された。その様子を見る、知ることが大切だ。国内報道よりも、海外のとらえ方を知る必要がある。たとえば、ドイツのニュースでは、国民が戦争反対のプラカードを掲げ、首相のスピーチ中にやじを飛ばしたという状況を報道し、今の日本への危機感を伝えていた。
年々、海外からのこの式典への参加も増えている。また世界各地で、この日に追悼の行事が開催されている。世界中が人類史上、最も恐ろしい悲劇の実験地 日本へ目を向けている。
経験をどう生かすのか。歴史にどう向き合うのか。
世界から日本はどう見られているのかを俯瞰して知り、自らの進む道をしっかり示し、進むことで、共感され、支持される国になる。
まさに島国だから、対岸のことしか見えていない傾向がある今の日本。世界はもっと見ている。日本という国はこの悲劇を教訓に、世界をリードする平和国家にならねばならないのだ。そこに戦いは不要。対話、コミュニケーション。武力ではないよ。ということをこの暑い夏の経験が示していることを、気づかない、気づけない人はいない・・・ことを節に願う。

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自分にしかできないこと、にこだわる。

アーチスト仲間との時間は、自分の存在力を高めるのに有効だ。セルフプロデュースというのはなかなかむつかしいけれど、誰かに自分を売ってもらう・・ということに依存するのはどうか?自分にしかできないことにこだわり、自分で自分の居場所を作ろうともがいている方がいい。人にはできないこと、自分にしかできないこと・・それをみつけるのが自分の付加価値づくりだ。苦しいけれど、どこまでオンリーワンでいられるかというところで、いつもじたばたしていることが大切なのかもしれない。
わが仲間も同じだ。伝統を打ち破ろうと新しいスタイルの表現を実践している。いろいろ言われることも多い環境の中でも、挑戦を続けている。音楽で世の中を変える、音楽を通じて人が育つ、世の中が元気になる・・。
たくさん飲んで、たくさん食べて、たくさん語って・・。じゃ、よろしくお願いします!楽しかった!。と別れる。
自分らしく生きていこうとする仲間が周りにいてくれることで、お互いががんばれる!「マーサががんばっているから、ぼくもがんばる」この言葉を胸に、自分しかできないことを、もっともっと企てようと思う。

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同時進行がたまらない。

ひとつのことだけをやる・・よりも、同時にいろんなことを考え、ピンチを切り抜け、やりきるのが快感だ。
しかも右と左の脳みそを同時にフル回転するのは、きっと将来的にボケ防止にもなるだろう。
8月からはじまるビジネスセミナーの仕込み、9月リリースするサードアルバム、10月からはじまるライブツアー。これらが同時に進行する。
気が付けば、毎年この時期になると同時に違うテーマの活動が動き出す。
夏の暑さに負けないには、それ以上のハードな課題を自分に課すのがいいのかもしれない。人間、確かにいっぱい集中するとかなりパワー消耗するのだが、この消耗はまさに熱中症ではなく、夢中症だ。
自分の作品が出来上がることを楽しみに、自分のステージを楽しみにしてくださる方たちの笑顔を楽しみに、そして皆様の仕事に役立つことを楽しみに・・。
ハッピーコミュニケーションクリエイターは「同時進行」を楽しみながら、この厳しい夏に克つ。

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長崎からの暑中見舞い

暑中見舞いを印刷して・・・という習慣がないけれど、気になる方へ、手書きで1枚のはがきをお送りすることはある。もちろん先にいただいた方への返事はする。そのとき、この方にはどの絵柄の、写真の、デザインの、色のハガキが良いかと考えて書くのも楽しみだ。でも、時々書き間違えて、失敗作。せっかくのポストカードを無駄にすることも少なくない。老眼とパソコン使いの生活で手書きは少し緊張するようになった。そしてバタバタしている毎日、あわてて書こうとして、そういうときに限って書き損じる、今日はゆったり、ハガキでも・・・という日があればよいか、なかなか・・。
最近、連日、暑中見舞いが届く。ビジネス関係の方から、遠く離れている方から・・。ありがたい限り。
そしてこの春、初めて訪ねた長崎の原爆ホームのおばあさま。100歳まで生きるわよ~。とお元気な方だった。その方から、アップのお顔の写真入りの暑中お見舞いハガキが届き、驚く。おお~。1回しかお会いしていないのに、ありがたいこと。お元気なんだ。
この1枚のハガキを作り、出すのに家族のサポート・協力もあっただろう。
遠いあの町のあのホームのあのおばあさまが、自分を思い出し、暑中見舞いをくださるとは感動的だ。暑さも忘れ、長崎のことを思い出す。
そうだ、今週末は忘れてはいけない日なのだ。原爆から70年生き延びてきたこのおばあさまからのハガキをみながら、自分の中に熱き思いが込み上げる。夏がきたら思い出す・・うーん。と、とにかくまずは返事を急ごう。
いろんな夏。忘れてはいけないこと・・。1枚のハガキが私に語りかけてくるような気がした。

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無限なる可能性への確信

先日、急ぎ足で映像のBGM用にピアノ曲を20曲ほど録音してきた。とにかく早く渡さねばという時間的制約と、BGMということもあり、録りっぱなしでその音源データを製作者に渡した。
私が創り、弾いた曲がどんな形で使われるのか?自分で自分の媒体、イベントで仕組む場合は、自分の作品であり、自分のステージであるから自分のイメージ、企画どおりに制作を進めるが、BGMとして使われる場合は、他のプロに制作を委ねるため、普段とは違う緊張と期待が入り乱れる。いったい、どんな風に使われるのだろう?どんな絵と一緒に?という感じでドキドキしながら、わくわくもする。
数日前、封書が届いた。「ひとつめの環境ビデオ、完成しました」とのことですでに商品としてパッケージになっているDVDを確認する。八海山の四季を写した映像に私の音楽がプラスされた作品だ。四季の変化を美しく撮影された山と空、田んぼ・・・。その美しい風景に私が弾くピアノ曲が乗っかっている。おお、おお不思議な世界。自分は八海山用に今回、曲を書いていないが、美しい風景を楽しむのにいい感じにメロディが流れている。
へえ、この曲がこういうところに使われるか、意外にいけるな。へえ、この組み合わせか~。もちろん編集中に事前確認はしており、驚くのはその段階であるが、とにかく映像には音楽が不可欠で、意外にも音楽の担う役割が多いということにも改めて気づかされ、改めて緊張してしまう。
魚沼の四季につづき、十日町の自然(棚田や森林・・・)ビデオ・・・。まだまだ続きそうだ。
もともと、人生をテーマにした作品づくりに興味があり、このBGMの話に乗っかったが、「自然」をテーマにした映像とのコラボも大いに可能性があることを知る。
ひとつの曲がいろんな顔に変化する。音楽はいろんな手法、応用でひとつの素材からも大いなる可能性と発展があるものだ。
映像のなかの自分の演奏。何回、何百回きいても、自分の演奏の細かい部分には気がいってしまう・・が、客観的にはわからないかもしれないし、細かなところはあまり関係ない。もっとトータルにとらえるそうだ。とにかく、音楽は素材として、大きな可能性を秘める。
少しでも人々の心に響くメッセージとなれば、本望だ。頑張って挑戦を続ける制作仲間に敬意を表し、刺激を交換しながらさらなる挑戦を仕掛けたいと思う。

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夏は「熱中症」ではなく「夢中症」でいこう!

ちょっと海風が吹くから安心と思い30度以上の新潟の町をかなり歩いた先日。帽子もサングラスもと、日焼け対策はもちろん万全であるが、やはり異常気象だ。街を眺めながら、時々木陰をみつけ、工夫しながら歩いたといっても、冷房のある駅ビルに入ったとたんじわじわ出ていた汗が一気に流れてくる。たまっていたものが噴き出すかのように。
水分補給もするが、ぐったりもする。あ、これはいけない。と反省。
歩くのは得意であるが、この猛暑での徒歩は注意が必要だ。毎日のように気温が上昇し、どこまで続く?と心配な本夏であるが、一方 暑さ対策に追われるだけでなく、秋に向けていろいろ始めるにはいいタイミングでもある。自分の夢に向かって準備をする、何か好きなことをみつける・・。暑さで外出を控える今だからこそ、室内で読書をしながらというのもいいだろう。
熱中症ではなく、好きなことをみつける、好きなことに向かう夢中症の夏にしたい。
目下、私は秋以降の企画の準備を楽しみながら進めていきつつ、さらに次への妄想を・・。暑い暑いと消耗するだけの夏では、生きているのが「もったいない!」から。

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