再び、ザビエルさんに呼ばれて・・

フランシスコ・ザビエルとは、きっとご縁があるのだと、ポルトガルの大航海の出発地点に立ったあの瞬間から、そう確信している。
その後、ザビエルさんのことを思い描いた曲を創り、ザビエルさんが実際に訪れた町平戸、山口でその曲を演奏する・・・なんて、我ながらの珍道中を重ねてきた数年。
道を歩くときは、気が付けば、その曲を口ずさみ、ひとりでテンションを上げている。
コロナだから、長崎も、山口も、行けないな・・・と思っていた矢先、
ザビエルさんからの指令が飛んできた。空からメッセージが降ってきたような。

山口講演でお世話になったみなさん、長崎でお世話になったみなさん。もちろんそれ以外でも。お世話になってきた人で、今コロナで困っている人に何かしてください。

というメッセージだ。
そうか。もっと早く気づくべきであった。
そんなわけで、長崎や山口の巡業でお世話になったみなさんに対して、今、恩返しをと思い、ささやかな活動をしはじめている。
どんなときも、周囲のみなさんにお世話になって生きてきた。
だから、今度はお返しをする番だ。

幸い、今、自分は飲食業を営んでいたり、観光業に直接携わっていない。
今、大変な人を応援しなければ・・と思ったら、何人かの人の顔が浮かんでくる。
サビエルさんが指令を送ってくることは、素直かつ迅速に活動しようと思う。
そう、コロナが終息したら、ザビエルさんにも会いに行きたい・・・。

今、お役に立てる人がいたら、迷わず行動。それがいい。

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オンラインの孤独。

今、前から時々受講していた大学の講座を、久しぶりに受講している。
コロナのおかげで、オンライン開講となったため、交通費もかからず、
手軽に学べて、この点だけは、コロナのおかげと思っている。
その講座の講師とは、リアルな授業でお会いし、その授業に向かう姿勢と、世界観広がる、示唆に富む知的な内容に感銘を受け、何回か受講。
ぜひまた受けたいと思っていたが、名古屋に引っ越してしまい、
なかなか通えなくなってしまった。
そんなところへ、今回のオンラインでの開講という嬉しい報せ。
先生の本職はジャーナリスト。新聞記者出身で、今や世界中を相手に取材活動を
展開。鋭い視点、深い思索から生まれる文章はさすがと思う、伝えるプロである。

さて、久しぶりの受講。
大きな教室で受講生の一人として過ごす90分と、パソコンのモニターを通じて一対一であるように過ごす90分は何だか別物に感じる。
どうしても、アップに映る講師のしゃべり方や、声や、その動作、背景やいろいろ気になる。もちろん共有資料も活用するため、講座の中身自体は充実しているが、リアルの講義とはちょっと何かが違うのだ。
先生もやりづらい面もあるだろうな~と思いながら、楽をしながら、学ばせて
いただく。こちらは何度も聞き直したり、見直したり、大学で聴いていた授業よりリラックスして受講させていただいている。

せっかくなので、と思い、感想のメールを送ってみる。
一対多。しかも相手の顔が見えない状態で講義をされているので、感想を送ると
喜んでくださった。そして、以下のメッセージをいただく。

「オンラインに孤独はつきものですが、私の本業の文章を書く世界に通じるものがあるようです。 お会いしたことのない人、一方通行の人へ向けどう伝えるか、共感してもらえるか、毎回がチャレンジです。」

との返事が来て、なるほどと納得。
オンラインは双方向が基本というものの、大人数の講義の場合は、そうではない。顔の見えない聴衆に向かってずっと話すという、修行のような時間になる。
もちろんチャットから質問も来るけれど、あえて、受講者全員にわかるように
回答されるので、これも顔は見えてないが、マスメディアの伝え手となれば、
受け手とはそういう関係である。

お会いしたことのない人、一方通行の人へどう伝えるか。

この課題は、確かに難しい。手探りをし続けるわけだ。
新聞記者らしい回答であり、またジャーナリストらしいチャレンジであると
思った。

オンラインの孤独。表現は違えど、最近、同じようなことをよく聞く。

オンラインは人間のコミュニケーションのメインの手段ではない。ひとつのサブ的手段である。人間である以上、そこは忘れたくない。次の講義も楽しみだ。

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忘れないうちに、やってきた。

もうすぐ3月11日だ。あれから10年だ・・・。
日本中の多くの人が、とくに東北の皆さまにおかれては、そのことを毎日意識され、過ごしてこられていることと思う。
10年だから、忘れちゃいけない。
と思っていた矢先の、週末の地震。

名古屋では何も被害がなかったけれど、夜通しの報道を見ながら、あのときのことが蘇り、眠れなくなった。

今回も、すでに被害が出ているようで、本当にお気の毒だ。
コロナに地震。
この両者に気を付けながらの、避難は、ほんとうにストレスであり、
余震の心配も残りながらの片付けも大変だ。

天災は忘れたころになってくる。
という言葉があったが、最近は、忘れられないほど頻繁である。
だから、余計に慣れてしまっているのかもしれない。

新幹線は地震でストップ、飛行機が臨時便を出すという。
コロナで低迷していた空の移動が、こんなときに役に立つ、
バスも急きょ、増便で対応。
切り替えができる、柔軟に対応できる、このことが今まさに求められるのだと
いうことを改めて知る。

今、改めて心引き締めて、いざというときに備える準備をしなければ
ならない。
意識づくりといいながら、防災ドラマは作ったけれど、
実際、自分のことはできていない!と反省。

忘れないうちに、備えよう。

被災地の皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。
余震がないこと、そして一刻も早く普段の暮らしに戻れることを
心から祈っております。

忘れないうちに、備えよう。もう一度、自分に言い聞かせる。

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コロナ禍の「ふるい」。

この一年。世界中がコロナに苦しめられている。
まだこの長いトンネルは、はっきりとした出口を示していないが、
人々の協力、知恵の結集によって間違いなく
前進していると信じている。

そして、この疫病は現代のネット社会のなかで、
ふるいの役割も果たしている。と、そんな風に感じる今日この頃。

このコロナ禍のなか、悪いもの、不正な存在が姿を消す。
そんな例が続いている。
コロナ前の人々の無関心、見逃しがこの窮地においては、
見逃されない。追い込まれる。
ネットの存在が、世のなかを動かしている。
コロナというきっかけと、ネットの力。

ずっとあると思っていたものが、ふるいにかけられている。

世のなかに、本当に必要であるかどうかを、見極めるふるい。

なぜ、このタイミングなのだろう。不思議に思うことも多いが、
間違いなく、コロナ前とコロナ後では、当たり前が変わってきている。
コロナ終息後も、世界はさらに変わっていくことだろう。

透明な、ありのままの、身の丈にあった、そして相手を思いやる
そんな世界に向かっていると信じている。

自分ファースト、古い考えの存在は、もう要らない。
ふるいは、目にこそ見えないが、存在していると、確信している。

コロナという「ふるい」が、世の中をあるべき方向へと、私たちを導いてくれる
のかもしれない。と勝手に思いつつ・・・。

物事をしっかり考え、判断する。
自分のなかの物差しも、この機会にしっかり
持ち直したい。

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防災ドラマ、公式サイトからも

現在、YouTubeで配信中の、防災ドラマ「東京(携帯式)ヘルメット物語」
が、グラン・ルー公式サイトからもご覧いただけます。

ひとりでも多くの方に、楽しく防災についてのご理解をいただく、きっかけに
なれば幸いです。
私のテーマソング「人生は観覧車のように」、フランシスコ・ザビエルをたたえた「フランチェスコの夢」などのオリジナル曲が、作品内に挿入されています。
どうぞ、お楽しみください。

Le Grande Roue Contents (mahsa.jp)

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歩くとシャボン玉?

移動手段で最も好きなのは歩くことだ。健康にも良く、頭や心にも良い。

一日 10000歩が目標。叶わぬ日もあるが平均すれば、まあまあ実行できているようだ。昨日は気が付けば、目標の倍以上歩いていた。少し時間あれば、一駅分歩く、二駅分歩く。じっと待つより、密にもならないし、快適だ。

ベートーベンも作家の野村正樹さんも、毎日散歩を日課とし、そこで構想を練った。考える仕事やゼロから生み出す仕事には、散歩は貴重な思索の時間だ。

歩き始めることで、パソコンの前では出てこなかったアイデアが湧いてくる。それは、常に同時にいろんなことを考えているからなのかもしれないが、さっきまで悶々としていたことも、外に出ると違った角度から物事が見えてくるから、不思議だ。

さっきまで、全くなかった新しいアイデアがどんどん湧いてきて、すぐ立ち止まってスマホにメモしたり、すぐメールしたり、浮かんだメロディならとりあえず歩きながら歌い、録音する。

今、残さないと、すぐ伝えないと。忘れてしまう。シャボン玉のようだ。

そんなこんなで、ゆったりしているつもりでも、忙しい散歩になることもあるが、自分の速さで世界と向き合うことが、想像したり、創造するにはもってこい。

犬も歩けば棒に当たるというか、が、私も歩けば、アイデアというシャボン玉に当たる。
というところか。

外に出ることで、いいことがある。巣ごもりもいいけれど、密ではない、
空の下での活動を楽しみたい。

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「GOGO!」「はい、はい」

相手をいかに、やる気にさせるか?は、常に考えどころだ。
これは、ビジネスの場面だけでなく、介護の現場も同じということが最近わかってきた。
カラダが以前よりスムーズに動けなくなってきた母。トイレに行くのがだんだんおっくうになる。加えてこの寒さ。部屋を出て、廊下を通ってトイレに行くのが
気が進まなくなり、どうしても行く回数が減る。トイレに12時間行かなかったら、作動するセキュリティも何度か稼働してしまい、警備員が出動。と、大騒ぎになる。えらいこっちゃ。

それでは困る、このままではいけないと思い、母にさまざまな手を尽くす。
「食べるときはいいけど、自分で出せないなら、人間として困るなあ」
「トイレきちんと行かないなら、おしゃれもしたらあかんわ。」
「トイレいけないなら、外出ももうできへんわ」
「トイレいけないなら、もう自宅へおいとけへんよ」
いろんな角度から、トイレに行かねばならないということを言いつくした。
母は、ある意味、危機感をもってきいていたようだ。

そこで、「これからは、トイレGOGO作戦や!」
そう、母を頻繁にトイレに向かわせることを、こう命名した。
すると、母が、「ゴーゴーって何や」と興味深げに聞いてくる。
「トイレに行こうという合言葉」
その後、母に毎日「トイレ行った?ゴーゴーやで」というと、
「はい、はい。行く行く」といい返事が返ってくるようになった。
そして、意識し、トイレにいくことを習慣づけるようになってきた。

「GOGOやで、GOGOしてよ」
と、直接でも、電話ででも、そういうと、母は反応して、「はいはい」
と応える。
なんだか、面白い。
ゴーゴーというと、トイレに行くのも楽しくなるのかな。
今、母との合言葉はこれだ。
「ゴーゴー」「はいはい」
なんだか、こっちも楽しくなってくる。
GO TO トラベルではなく、 GO GOトイレ。
元気に毎日を過ごすために、ちょっとしたことですべてが変わることもあるようだ。

親ののGO GO人生を、出来るだけ長く応援し続けたい。

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コミカルでまじめ。優しくて強い。

先日投稿済の、You Tubeで配信中の防災防災ドラマ「東京(携帯式)ヘルメット物語」をごらんになった方から、うれしい声をいただく。
https://a4t.jp/language/tokyohelmetmonogatari.pdf

「ヘルメット、見ましたよ!面白いですね。コミカルで温かくて、そしてテーマは本当に重要なこと。
こういう コンテンツがシェアされるといいですね。 フォロワー少ないFBですが、私もシェアしてみて反応をみようと思います。
(ちなみに私の課では共有しておきました。)」

「防災ヘルメットの動画を拝見しました。その構成が、ヘルメットと云うモノ視点は、サラッと触れる程度で、むしろ、送った方のやさしさや貰った方の気持ちにフォーカスしている点は、何事の提案においても、見習うべき視点と感じました。
買って!ばかりでは顧客は逃げますね。そんな動画を盛り上げ、主人公の気持ちに寄り添う「音楽」が情緒を醸し出していますね。」

以上はその中から、企画の意図が伝わったかなと嬉しく思った一例だ。

真面目なこと、大切なことを伝えたいときほど、敷居を低くし、ソフトに、楽しくいきたい。そして、優しさも織り交ぜたい。
そして、相手の内面にじんわり伝わり、その意識や行動が変わっていけば・・。
ただ面白いだけでは意味がない。これが大切なんですよ。という軸はぶれないように。
今回の動画は、コロナ禍だからこそ発想できたのだと思うが、大事なことを伝えるその手法、表現についての実験でもあった。
だからその意図を理解し、受けとめてくれる人がいるということは、自分のこの仕事、生き方の励みになり、やりがいにもつながる。

また、一斉に多くの人に見てもらうことを意図する手法もあるが、本企画は「瞬間的な」話題性を優先する、バズることが狙いではない。
持続性、継続性。長く、飽きずに見てもらえて、配信元の企業が感謝されたり、それによりブランド価値が上がったり、何よりも、今回であれば防災意識をもつ人が増えれば、それが一番。
防災といえば、食糧のことにまず意識が向きそうであるが、今回のドラマで、身を守る、自分を守る、大切な人を守ることに意識を向ける人が一人でも増えたら・・。ドラマが暮らしに役立つなんて、最高だ。



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往来で雪のノスタルジー。

冬に、名古屋から京都へ行く際は関ヶ原に要注意。電車が遅れる。
と、このことは子供の時から知っている。
関ヶ原付近の雪の影響で・・・と新幹線でのアナウンスはこれまで何百回も
耳にし、実際、列車の遅れにも慣らされた。新幹線も雪には勝てないんだ。
と思っていた。

雪といえば、長年の新潟通いのおかげで、上越新幹線の車窓から眺める雪、高速道路で降り続く雪、一般道にうず高く除雪された雪の山・・・。などなど、雪のある景色には随分慣れてきた。
また上越新幹線は、大雪の中も、放水して降り続く雪を跳ねのけ、元気に走り続ける。雪国の新幹線は、タフかつパワフルであることも知った。
初めてその様子を見たときは、「おー!すごっ」と感動したものだ。
また、新潟でのディナーショー当日など自分主催のイベントには、季節外れの雪が突然、舞い降りてきたり、そんなドラマチックなシーンも今だ記憶に新しい。

雪とは、見て美しく、共生するにはやっかいな、そして恐ろしい存在だ。
でも、雪が降ることで、いい水ができ、おいしいお酒やお米ができる・・。
雪があって、雪国の人の暮らしは成り立つ。雪が暮らしを豊かにしてくれている一面もある。
雪こそ、吉なるもの・・。と「吉雪」というブランド名を名付けた食品会社もある・・。今は亡き、そこの創業者が、熱く雪への思いを語っておられたことも、思い出される。
雪に対するわが想いは、新潟通いのおかげでずいぶんと深化したものだ。
凍てつく雪道を歩くのは大の苦手のままであるが・・・。

などなど、京都に向かう途中、米原周辺の雪を車窓から眺めながら、あれこれと
思い出していた。
そのとき、
真っ白な田んぼに、おひさまが照り付けて、きらきら光った。
この雪で、近江のお米もおいしくなるのだろう。
越後平野の広大な田んぼも、こんな風にきらきらしているかな。
雪というだけで、滋賀にいながら、新潟にもいる。

雪のノスタルジー。往く冬を愛しみたい。

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がんばる店をとことん応援!

毎日11時すぎにメールを送ってくる、岐阜のお寿司屋さん。
今年に入って、一度ランチに利用し、料理、接客ともにがんばっているな~と思うことが多く、思わずメルマガ会員に登録して以来、毎日送ってくる。
不思議なことに、そのメールが届くことが、なぜか嫌ではないのだ。
メルマガでも、あまり頻繁にきたり、押しつけ型、売り込み型の内容であると
鬱陶しくなり、登録解除をすることもあるが、この寿司屋さんのメールはそうではないのだ。
今日もがんばってるな~。という気持ちになるのだ。

緊急事態宣言下の営業は、制約も多く、大変だが、板さんも助手さんも、ホール担当の方も、皆さん全員が、気持ちいい接客。活気あるお店なのだ。
そして、店内には「おうちで寿司宴会いかがですか?」などのテイクアウト商品のアピールもしっかり。コロナを前向きに乗り切ろうという気概も感じる。

飲食業とは決して派手な商売ではなく、細かい信頼の積み重ねであると思う。
そのことをきちんとやっていれば、お客が切れない。

このコロナで、あまたある飲食店が本当に頑張る店かどうか、がふるいにかけられていると思う。もちろん自力ではどうしようもない状況にあるお店も多いと思う。だからこそ、しっかりサポートする体制が求められている。

この岐阜のお寿司屋さんに限らず、今は訪問できなくても、工夫を絶やさず元気に頑張り続けている店を、心から応援したい。

頑張る人は、応援しなくちゃ!

でも、それも限界もあるから、早く、早く。
コロナの終息への祈りと、こういうときこその、
公的そして公平、適切な支援体制を心からのぞむ。



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