ここで「会える」は、永遠に。

初めてのことづくしの、この三か月のクライマックスイベントは、納骨。
雨が心配されたが、天気予報は大きく外れて、予定どおりの運びとなった。
地域の墓地内にある、実家のお墓。
先日、無事、墓石に母の名前も彫っていただき、準備も整い、3か月お寺にあずかっていただいたお骨を受け取り、墓地に向かう。
妹と二人、墓地を掃除しながら、お寺さんが来られるのを待つが、なんせ慣れていないから、指示をいただくためスタンバイ。
3月26日から何度もお世話になってきた、いろんな交流をさせていただいたご住職が登場される。
そして、準備の指示をいただき、それに従う。
「では、お骨をここに入れてください」
墓石の手前の部分を移動させると、生まれてはじめてみる空間。土の上に先代のお骨のようなものが見える。へえ、こういう世界?初めてみるお骨ワールドにしばし手が止まる。そして、
容器から、母のお骨をひとつづつ取り出して、そこに納める。
「へ?手で触っていいんですか?」
そんなことも不思議に思いながら、母のお骨に素手で触る。不思議な触感だ。
これが、母??という感じ。
「のどぼとけは分骨されます?」と、言われ、これは容器に残す・・など、
住職に導かれ、その儀式は進み、墓石の下に、母のお骨が無事移動。
そして、法要。晴れた空のもとに響くお経と線香の煙に包まれ、妹と二人、手を合わせる。
実家から歩いて数分のところにあるこの墓地。
今日から母はここに眠る。

「納骨されたらいつでも、お参りに行けるね」と、近所のみなさんがお待ちかねだ。
千の風になって・・のブーム後、お墓不要説も生まれたらしいが、お参りしたいと思う人にとって、またお参りされたい人にとって、墓地という存在は必要な再会の場なのだろう。

この3か月の数々の行事を無事に終え、妹と「お疲れ様でした」のランチ。
いつもライブをしてきた思い出の、そして遺影となった写真の撮影場でもある、なじみのカフェレストランで。
しみじみと思い出しながら、この3か月をよく駆け抜けたと思いながら、
さっき、初めて触れた母のお骨の感覚を思い出しながら、結局は、
どこにいても57年間、一緒に生きてきたんだということを実感。

お墓であり、実家であり、このカフェであり、どこであっても、母に会える。
そういう気持ちがある限り、これからも、一緒に生きていくのだろう。

3か月間、お寺の皆様、ご近所の皆様、そして親戚の皆様・・・母がお世話になってきた周囲の皆様には大変大変お世話になりました。
そして、私たちを応援しつづけてくださっている皆様にも、心からの感謝をお伝えしたい。

母と会える。
それは自分次第。
会える・・・。それは、生きている人に対しても同じだ。
そのことを大切にしよう。ということを学ぶ大切な時間ともなった。

皆様、大変ありがとうございました。




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新しい経験を重ねた3か月に。

3月からの3か月は、自分の人生にとって大きな学びの時間になっている。
これまで踏み入れたことがない世界=親との別れを経験することで、
これまで考えたこともなかった出会いやおつきあい、調整など、さまざまな関係と向き合うことになった。
どれもこれも、わからないことばかりで、それでも判断しながら前に進んできた。間違いなく、母の死が与えてくれた新たな出会いも生まれている。

ひとりの人の人生は終わったら、周囲の人に、記憶として受け継がれるということもわかった。
残った人が、その人を忘れないで大切に思っていれば、その人の存在は永久に消えることはない。
との言葉をこれまでにも多く聞いてきたが、今はそのとおりだと思う。

今朝は、母の好きだった炊き込みごはんを作った。
久しぶりだ。母のために買ってあった食材を使い、あのあわただしかった介護生活の時間をふりかえる。元気で会ったあの朝も、喧嘩したあと、
「おなかすいたな」
と言って、おいしそうに食べていた姿がくっきりよみがえる。
今日はお世話になった人に召し上がっていただきながら、母の旅立ちに改めて思いをはせるとしよう。
雨が降らなければ、納骨となる。
また、ひとつ新たな経験を積む。

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生きてる限り、ゴールはない。

政治を変えたい。物事の決め方を変えたい。
との思いの、熱き女性に出会う。
正しくは、出会い直している。


10年ほど前にお会いしていたが、最近あるきっかけで再会。
初めてゆっくり話をする機会を得て、こういう生き方もあるのだと
刺激を受ける。

経営の仕事に携わりながらも、30歳から、政治の道に
進むことを夢見て、邁進されている。
政治家になるには、まずはおカネがいるから、
稼いできたとのこと。

世の中を変える。女性の力で変える。
そのために、動き出している。
ひとりではなく、複数で一斉に動き出したいとの考えだ。
ひとりの力では、世の中はなかなか変わらない。
群れることが大切だという。
なるほど。
そして、
死ぬまで、世の中のために生きる。
「ゴールはないのよ。」
彼女との言葉で、そこがとても印象に残った。
人生が終わるときがゴールかもしれないが、
生きているときにそんなものはない。
とにかく、やり続ける。

自分の思いと通じる部分もあり、わが人生の今後も
考えるきっかけになりそうだ。
ふるさと岐阜にも、こんな生粋のパワフルレディがいることを
うれしく思う。

夢に向かって進み続ける。
定年で働くことをやめる人もいるが、生涯進み続ける、働き続ける人もいる。
どうせ生きるなら、後者がいい。そう、ゴールはない。

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自分の言葉、仕事に責任をもつ。

改めて、オリンピック、この時期に本当にやるのだろうか?
なぜ、こんなにも国民が反対しているのに、危険性を感じているのに、賭けのようなことをしなければならないのだろう?まるで、別の世界の出来事のように準備が着々と進んでいくんだろう。
この大きな仕事の責任はだれが、どうとるんだろう。
この数年間、いろんな問題が山積、疑念が消えないこの世界のお祭り騒ぎ。
コロナが終息していないこの日本でなぜ、今、しなければならないのか、
本当にわけわからない。という気持ちでいるのは私だけではないだろう。

どんな大勝負をするにせよ、理由があるならば、大儀があるならば、
それが納得できるならば、まだいい。
しかし、今回は、いまだに、何のために今やらなきゃいけないのか?
が伝わってこない。
とんちんかんな答弁を繰り返し、現実から逃避しているような
対応しか見せられない人に、大きな仕事はできるのか?

どうでもいいが、とにかく 責任をもってほしい、とってほしい。

自分の言葉。自分の行動に対して。
責任をとれないで、人のせいにし続ける人は、
お願いだから、人の上にたつ仕事はやめてほしい。

理解に苦しむ、大人たちの小手先の立ち回りを見て、
若者たちは悪い影響をされてほしくない。
責任。
人間は生きている以上、それぞれが責任をもってその役割を
全うしなければ…と思っている。
それにしても、なんのために、誰のために、なぜ?
が見えないまま、物事が進んでいく。
こんなところに、共感や感動が生まれるのだろうか?
権力とマスコミ。この責任をみつめながら、
自らの生き方をしっかり確認したい。
コロナは、もしかしたら、また新たな警告を人類に示しているのかも。
この夏は、振り回されず、しっかり世のなかをみつめ、身の処し方を考えよう。無責任に振り回されないように。



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マケルナ、マーサここにあり。

今、一番しんどい言葉、そして私を奮い立たせる言葉は
「お母さんがいなくなったので、大変やね~」。
母と仲良くしていただいた皆さんが、何気なく言われるこの一言が
実は、とても苦しい。
別に、大変じゃないけど、大変だったのは、生きているときのこと。
とそう思う自分と、そうなんだ、大変に見えているんだ~。

この周囲の目がたまらない。
しかし、
その言葉は周囲の心配であると善意に解釈するようにつとめ、
そして、よし、それを乗り越えてやる!
と気持ちを切り替え、前に突き進むことにした。

いなくなったから大変。確かにそういう面もあるかもしれないが、
明らかに人生は前に進んでいる。
いつまでも、そんなこと言ってる場合じゃない。

と、何事も乗り越えていこうと改めて心に誓う。
そうすることを、母も喜ぶはずだ。
母がいないから、できない。
そんなことはない。
いなくても、いないからこそ、やる、やれる。

自由に存分。狭い世界にいないで、自分を解き放ち、どんどん挑戦しよう。
人さまのなにげない一言で、触発され、がぜんパワーが湧いてくるものだ。

周囲のプレッシャー、視線に負けず、
私は私なりに、突き進む。
ふと、「ファイトいっぱ~つ」と、「・・・まけるな一茶、ここにあり。」の句が頭に浮かんだ♪

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すべては「関係」で成り立つ。

「こころの時代」という番組がある。Eテレのなかでも、よくできているコンテンツだと思う。宗教・哲学について幅広い視点で取り上げ、しかもわかりやすく表現している。尊敬する学者さんや、宗教者が登場するときもあり、共感することも多い。が、だいたいは、ながら見であるので、断片的な記憶でとどまることも多いが。
今回も、ながら見をしていたが、ちょっと手を止めた瞬間。瞑想と仏教をテーマにしていた。専門家が、「一切は空である」。という概念の話をされていた。たとえば、家というものは、さまざまな建材・素材の関係があってこそ、成り立つのであって、それらの関係がなければ、家自体が存在しない。
という考え。これはわかりやすい例えだ。
たとえば、グラン・ルーの発想もそうだ。それに近い。
私がいう、心の観覧車とは、そういう乗り物があるのではなく、会社でも町でも家族でもいいが、そこに集う人たちの心がよく結ばれる、関係性がよければ、観覧車が生まれるという意味だ。
人がここにそこにいるだけでは、楽しいコミュニケーションは生まれない。
関係性だ。
気が付けば、自分のマーケティングの考え方をお伝えするときにも、この10年以上「関係」という言葉を使い続けている。
すべてのステイクホルダーとの関係性。お互いがよければ、万事うまくいく。
あの人のために、この人のために。とお互いを思い合うことによって(慈悲という言葉に近いか?)そこに信頼が生まれ、関係がよくなる。
結局はそこだ。
関係性をよくするには、やはりコミュニケーションだ。
ここを、改めて意識し、今日も素敵な関係が生まれ、育まれるようにしたい。

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父の日に、笑いを届ける。

先に、父の日について思うことを書いたが、つい最近、父に会って、
ネガティブな思いは消えた。
今、生きている。施設の皆さんにお世話になって毎日過ごしている。そのことが
ありがたく、先のことを悲観せず。とにかくポジティブに!と思うのみ。
それはひとえに、父がなんとか元気にしてくれていることを確認できたからだと思う。かけがえのない存在が、いてくれること。これは本当にありがたい。
明日は何が起きるかわからないが、それは誰もが同じこと。
そんなことで、どうせなら、楽しい気持ちで過ごせるように。
写真は最近みつけた、かえるの置物。貯金箱らしい。
なんとなく、母の存在感に似ていると思った。
よし、これを父の日のプレゼントに。
施設の部屋のテレビの脇にでもおいてもらって、母と思って、笑って暮らしてもらえたら。
と、すべて自己満足なんだろうが、それでもきっと思いは届く、通じると思って、やろう思ったことを、楽しくやる。
改めて、世界でひとりのわが父に、感謝を込めて。
お父さん、ありがとう。お母さんの分まで、生きなあかんで。

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神がおりてくる瞬間、あります。

今、一緒に仕事としている仲間(といっても人生の先輩であるが)とのやりとりで、「神が降りてくるのを待ちます」というくだりがあって、思わず、わかるな~と共感。

見えないものを見える化する、誰もしたことがないことを表現するときは、
まさに想像と創造がクロスする。
考えたり、書いたり、あるいは表現するとき、ずっとずっとそこに集中していると、ふっとアイデアが湧いたり、筆がすすんだり、いいメロディが湧いてきたり・・する。
そういえば、ある音楽関係の仕事をしている人も、作曲をするとき、「何か知らないけど、気づいたら曲が湧いてくる。それは、まさに神がおりてきた感じ・・」と、そんなことを言っていたことを思い出す。

私自身も、時々、神がおりてくるのを感じるときがある。
ずっと頭のなかにあるけれど、ふとした瞬間におりてくる、湧いてくるのだ。

見えないものを見える化する仕事。
これって、本当に最高だ。
自分で考え、自分でつくりだす生き方。仕事。
やりがい、いきがいは、すべて「想像と創造」にあるのかもしれない。
人がやらないこと、やれないことをしよう。し続けよう。
そう思うだけで、わくわくしてくる。

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BGMの重要性。

店という特別な空間。お客様には、五感で感じていただきたい。
もちろん料理を提供するお店であれば、その料理の見た目、食器から、接客にいたるまで、すべてがお客様の満足につながるものでなければならない。
その満足をさらに高めるための演出が、フラワーアレンジメントであったり、
店内ディスプレイであったり・・・。
そして、音も大変重要な演出のファクターだ。どんなBGMが流れているかでお店のセンスと質がわかる。そしていい曲だと聴き入ってしまい、長くそこにいたくなる。
BGM。まさにバックグラウンドミュージック。主役になってはいけない。
でもできる限り、お店のコンセプト、イメージ、サービスに似合う音色がいい。


以前、ある野菜や食材にこだわるレストランで、有線チャンネルからピアノ演奏を流していた。たしかにピアノではあるが、どこか人工的で機械音の限界も感じ、あまり料理を引き立てていないと感じたことがあった。無機質な音と有機野菜が合わない感じがしたのだ。ではあるが、これはこちらが勝手に感じたこと。
選ぶ人の感性も大変重要だ。
こだわりの珈琲店にはジャズやクラシックが良く似合う。
音楽によって、店を選ぶこともある。

さて、このたびリニューアルした楽器店の楽譜売り場。
楽譜を探すときは、書いてある譜面を見ながら、メロディを確認し、ああ、この曲だ。と、理解してから楽譜を購入する。
そのお店は、リニューアル直後で、お店が快適になりました。といわんばかりに
スイング系のジャズを流していた。
確かに、一歩店に入ったときは快適。お、いい感じ。さあ、楽譜探そう!
と楽譜の棚の前まで進む。
しかし、クラシックの楽譜を手に取った瞬間、ジャズの弾むリズムが、クラシックの楽譜の読み取りを遮ることに気づく。
静かな空間であれば、頭のなかに楽譜を見ることで、その♪がそのまま頭の中で広がるが、ジャズのリズムに流されて、楽譜が読み取れない。♪が頭に描かれないのだ。
ああ、楽譜売り場にBGMは要らないな。邪魔になる。静かな方がいいな。直観的にそう感じた。図書館と同じだ。
ピアノの楽譜ですらそうだから、オーケストラの楽譜だと尚更だろう。
楽譜を探すには、BGMがない方がいい。
困ったな~と思っているときに、店員さんが品出しに売り場に現れた。
「すみません・・。」かなり小声で話しかける。
「あのー、大変申し訳ないのですが、クラシックの楽譜を見るときは、ジャズが流れていると気になって、楽譜が選びづらいんですけど・・・。いい音楽が流れているので申し訳ないのですが・・・・」というと、店員さんは意図を察してくれて、
「ああ、すみません。そうですね。教えていただきありがとうございます。」
といって、すぐバックヤードへ行き、すぐボリュームを下げてくれた。
かなり小さくなった。鳴っているかどうかわからないほどだ。
まあ、これぐらいなら、楽譜の読み取りの邪魔にはならない。

早速、ショパンの一冊をみつけ、確認して、レジに向かう。
帰り際に、マスク越しに店員さんと目くばせをしながら
「ありがとうございました」と、言い合う。

いい店は五感でお客様を喜ばせてくれる。
そして、快適にストレスなく、目的が達成できるよう、臨機応変に対応してくれる。
お客さんの声にも耳を傾け、すぐ行動をとってくれる。
このコミュニケーションを重ねることで、お店はさらに磨かれる。




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納骨前のおひとり様コンサート。

もうすぐ納骨。なんとなく、ここで亡くなってからの
さまざまな行事が一区切りになりそうな、
そんな気持ちになる今日この頃。
一般には、納骨とはお墓にお骨を納めることで、引っ越しでもある。
思えば、亡くなる10日前、救急搬送されてから、自宅に戻ることがないまま
約三か月で、納骨になる。
お骨を母の肉体の一部とすれば、それはもう、永遠に自宅に帰ることがない。
という考え方もある。
そこで、
そうか、母にもう一度、ピアノを聴かせてあげたいと思いたつ。

お寺からお骨の外出許可(?)をいただき、しばし自宅へ持ち帰る。
亡くなってから初めての帰宅。
実家には誰も住んでいないため、お寺にお世話になってきた約三か月。
せめても、今、短時間でも納骨前に自宅で過ごしてもらう。

そして、ピアノのある部屋にお骨を運んで、ピアノがよく見える位置に写真とともに置く。そして、母の笑顔を横目に、演奏を開始する。
「では、はじめます」
母のための、母ひとりのための、いや、母と私のプチコンサートだ。
葬儀でも歌った「みのり愛」、父との金婚式記念につくった「ひと・文様」
出張先でふるさとのことを思って生まれた「みず・つち・ひと」、そして長良川の鵜飼を描写した「おもしろうて・・・」と母やふるさとにまつわるオリジナル曲。さらに、3歳のころ、オルガンを始めた頃、母と並んで一緒に弾いた唯一の曲「悲しき天然」を弾き、歌う。
母の写真から、拍手が聴こえてきたように感じた。そして、笑顔が飛び出してきそうに感じた。
ひととおり演奏してから、
「ありがとうございました。」
と、なんどもなんども言う。
「ピアノを習わせてもらって、ありがとうございました。」
「こんなに立派なピアノを買ってもらって、ありがとうございました。」
いろんな「ありがとう」を母に伝えた。

私と母を結ぶものは、ピアノ・エレクトーン・歌。そう、音楽。
好きなジャンルもすべて違うけれど、
音楽という絆で結ばれていたのだと思う。

特定の形は亡くなっても、まさに無形の存在として、
生き続ける母との「関係」。
そう、人は個としての死以上に、その人との関係が大切で、
そのつながりが強ければ、その存在は永遠だ。
そんなことを、直感できたひとときでもあった。

母は長い旅に出たばかり。いい旅をしてほしい。


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